医療棟の夜

 天蓋が夜の色に落ち、医療棟の廊下は琥珀色に沈んでいた。

 アリスとエランは面会許可を得て、静かな病室に入る。ジョリンの脚は薄い膜——再生循環膜——に包まれ、内部で淡い光が波打っている。脈動は先ほどより安定し、呼吸も深い。


「経過は?」アリスが小声で問う。


「順調です」年配の医師がタブレットを傾ける。

 画面には血流と組織酸素化の格子マップが映り、赤から緑へと色が遷移していた。

「膜の微弱電流と局所湿潤が血管新生を促進します。薬剤は膜内の微細導管から必要量だけ、損傷層へ直接。」


 エランが身を乗り出す。「全身投薬をしない……副作用の負荷が桁違いに小さいわけだ」


「それだけではありません」医師はベッド脇の透明柱を示す。

「相変化冷媒で患部温度を±0.3度で制御しています。熱負荷が治癒速度を決めることが多いので」


 ノクティスの白い医療区画が、アリスの脳裏をかすめる。AIが生存確率を下回ると治療は打ち切られ、鎮痛と臓器摘出に移る——合理の名で切り捨てられてきた現実。

 それに対し、ここでは環境を患者に合わせて作り替える。発想から違う。


「もし——このユニットを、僕らの地下でも回せれば」エランが独り言のように言った。「熱と湿度の制御なら、ノクティスの基岩熱井戸や凝縮回収ノズルで補助できる」


 医師が興味を示す。「基岩熱井戸?」


「岩盤の深部へ掘った熱井戸で、低振幅の吸熱を長時間続けられる設備です。大出力じゃないけど、**安定して冷却の“底”**を作れる。小型の医療ユニットなら、電力消費を下げられるはず」


 医師は顎に手を当てた。「冷却庭の蒸散に頼らず、ベッドサイドで熱を捨てられる……在宅ユニットにも転用できるかもしれない」


 看護師が壁端の端末で素早く計算する。

「仮に基岩熱井戸とカップリングすると——局所ユニットの消費電力、平均で9〜12%削減見込み。医療棟全体でのピーク負荷も下がるわ」


 数字が出た瞬間、部屋の空気がわずかに動いた。

 ——**ソリヴァール側の“利益”**が、具体的にテーブルに載った。


 アリスはジョリンの寝顔を見てから、医師に向き直る。

「私たちの国では、この傷は“切り捨て”の判定が下されていた。けれど、あなたたちの方法なら助かる。この技術を持ち帰りたい。代わりに、地下の熱管理と水回収の技術パッケージを提供できます」


 医師は微笑む。「私は政治家ではありませんが、医学は交換で広がると信じています。局長に示せる症例報告とエネルギー試算をまとめましょう」


 エランが端末を構えた。「ノクティス式の凝縮回収ノズルの設計図、簡易版なら今すぐ描ける。冷却庭の夜間回収率を上げられる。汎用の口径で出しておくよ」


「お願い」アリスは頷く。「ローワンが“利益がない”と言えない形にする。命と効率、どちらも示して」


 ちょうどそのとき、再生膜の光が一段落ち、アラートが柔らかく鳴った。

 医師が記録を確認する。「壊死リスク領域、縮小に転じました。デブリードマン不要の可能性が高まっています」


 アリスの胸に、はっきりとした確信が灯る。

 ——この街と繋がれば、救える命が増える。

 そして、こちらの技術もまた、この街の夜を少し軽くできる。


「今夜、草案を作る」アリスは言った。「相互実証パイロット——

 1) ソリヴァール:再生循環膜+在床ユニット、ジョリン症例のデータ公開

 2) ノクティス:基岩熱井戸+凝縮回収ノズルの供与、冷却庭の夜間回収の実地最適化

 双方で“翌朝に効く”改善を出す」


 エランが笑う。「いい見出しだ。“翌朝に効く”」


 窓の外、天蓋の光がさらに落ち、やわらかな夜風がカーテンを揺らした。

 アリスは端末を開き、ローワンへの提出フォーマットに文字を打ち込む。

 利益と証拠、そして命の実績を——揃えて持っていくために。

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