緑の鑑 影影


 進むほどに森は濃くなり、湿度は飽和に近づいていく。

 足元の土は柔らかく、踏み込むたびにぐしゃりと水を含んだ感触が靴底から伝わった。視界は緑に閉ざされ、どちらを向いても同じ風景が続く。時間の感覚すら、湿った熱気に溶かされていくようだった。


 その中で、不自然なことに気づく。

 ――音がない。

 先ほどまで微かに聞こえていた虫の羽音や小動物の動きが、唐突に途絶えていた。

 隊列を進めていたセリンが、手を上げて全員に停止を命じる。空気が、張り詰めた。


 アリスは耳を澄ます。すると、遠くで葉を踏みしだく音が、ひとつ、ふたつ。

 湿った空気をかき分けるように、その音は少しずつ近づいてくる。

 何かが、こちらを向いて歩いてくるのだ。


 やがて、低い咆哮が森に響いた。

 それは風の音ではない。大地の奥からじわりと這い上がってくるような、重く湿った音。

 負傷しているカーの顔色が、さらに悪くなる。「……今の、何だ」

 その問いに答える者はいない。答えられる者はいない。


 アリスは視線を巡らせる。

 そのとき、左手の木陰で何かがわずかに動いた。

 葉の隙間から、丸く光を反射するもの――複眼が一瞬、きらりと光り、すぐに闇に溶けた。

 ひとつではない。木陰の奥、幾つも幾つも光が瞬いては消えていく。


 彼女は無意識に呼吸を浅くする。

 複眼の高さは人間よりやや低いが、その並びは異様に広い。まるで群れが、こちらを囲むように配置についているかのようだった。


 背後のジョリンが、小さく舌打ちをした。手の中の銃がわずかに震えている。

 セリンが視線だけで「撃つな」と命じる。

 この森では銃声ひとつが致命的な合図になりかねない。


 葉のざわめきが、また近づいた。

 湿気の中で全員の呼吸音が重く響く。

 その呼吸に合わせるかのように、足音とざわめきが一歩ずつ、距離を詰めてきていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る