ゆらぐ、追憶に
熄香(うづか)
ゆらぐ、追憶に
昨夜の大雨に隣村の一部が土石流で田圃が一反潰れたようだ。人魚が現れると大嵐になると云う伝説はどこかで聞いたことがある。今朝隣の家の爺さんがぼやいていた。幸いにもこの家周辺で大きな被害はないが、気の毒である。打って変わって本日は晴天也。油蝉が太陽に拍手喝采するかの如く裏山から渡り、昼寝を阻害する。我が家の庭は水捌けが元々悪い故大雨の次の日には水が土を覆っていた。土台が腐らないか心配だった。この狭く古い日本家屋は、綺麗とは言い難い。然し両親の想い出が残り香として今も居てくれる。それだけで充分だった。この六畳一間にある卓袱台や茶箪笥に生きた証が刻まれている。ヒビが入った土壁に、昔からあった暖簾はシミが所々滲んでいる。天井の電球はそろそろ寿命が近いかも知れない。踏み慣れた褪せている畳に体を投げ出した。古き良き日本家屋の天井が目の前に広がる。太陽に照り付けられた庭の雨水が、不規則に天井に揺らいで我が家に華やかさをもたらしていた。真昼間の電気を消した部屋にうつろう光……。幼い頃に氷が溶ける滑らかさを眺めていた時、大きな桶で水遊びさせてくれた日を思い出した。その跳ねた山の水の冷めるような冷たさに驚くと、母がおかしそうにわらった。大きく土に飛び散った水溜まりに、何か妖が通ったようなどこか鋭さを感じる風が吹いた。それは共に漣を引き連れた。——細かく震える天井の光の波紋に、何気なく昔のことを思い出していると水の上を歩く音が聞こえてくる。咄嗟に起き上がれば見知らぬ女学生程の娘が小振りの着物の裾を摘んでこちらにやってくるではないか。「あらお兄さん、よかったわ、少しよろしいかしら」と、縁側に腰を落とした。無垢なほほえみが深い池の底から静かに湧き上がるようだった。
「な、なんだよ」
「ごめんなさいね、急に!ちょっと、お願いがあるの」
嵐のようにやってきた娘は急に裾をたくし上げ、左の太腿を晒した。そこには、大きな傷が伸びやかに娘の白い肌を彩っていた。昨夜の大雨で怪我をしてしまい、家も遠く、手当のしようがないと困っていたのだと言う。年頃の娘に傷がついたのにも関わらず顔はわらっていた。長い睫毛が影となって頬に落ちている。妙に大人びた眼差しに、本当に女学生なのか、二十歳を超えているのかわからない。よく見ればここらの人間にしてはかなり美人だった。いや、この世と思えぬ程の整った薄桃色の唇に大きく丸い瞳は闇よりも黒い。白い肌に薄浅葱いろの紗が更に傷の印象を際立たせている。硝子細工のような繊細なその容姿に胸がざわつく前に離れた。ずっと使っていない包帯を取りに行くと娘に手渡した。年頃の娘の生足を触るのは、やはり、憚られる。
娘は暫くこの狭い縁側にいた。水が引かない家の周りを歩かせる訳にはいかなかった。娘は両親や過去についてをいろいろ訊いてきた。そのうちに水は少しずつ引き始めると日も傾き始める。娘はお礼を言ってから乾かしていた草履を履くと立ち止まった。
「そうだ!山向こうの人魚伝説興味ありなさる?ここの人魚は死者を海の底から引きあげるのよ。涙の薬で生き返らせる事ができると云う言い伝え」
娘は清々しい程のえがおだった。口角を一層上げて目を細めて、しっかりと俺を捕らえた。その瞳の奥が、手招きするような深さがあった。反応が薄いのを見たのか、クスクスわらって、形の良い唇をゆっくりと動かす。
「——そうね、満月の夜に海岸沿いへ歩くと出逢えるらしいわ」
「逢えるって?」
「人魚よ。人魚。よかったら行ってみたらどうかしら。お母様やお父様に、もう一度逢えるなら、たとえ迷信でも信じてみたくなるものよね」
とんだ迷信を心の底から信じている無垢な娘は足早に手を振って遠ざかった。嵐のように現れ、風のように去る……。静けさが戻った日本家屋はどこか物悲しそうにしていた。あんな談笑をするひとはいつ振りだろうか。余韻が尾を引く会話が、脳内に反響した。——もし、父や母が生き返ったらどう言ってくれるだろうか。まだ片手で数えられるほどしか経ってなかった一人息子を置いて死んだ両親。それが今や不器用ながらも丈夫になった自分を見て父は酒を持ってくるだろうか。母は料理を振る舞うのだろうか?藍色に染まりかける空に星が小さくも力強く輝いている気がした。——嗚呼そうさ、人間が生き返るなど莫迦らしい。然し敢えて言うなら、ここに思い出として残ってくれている。それだけで充分だ。
それから暫くして満月が過ぎた。隣の爺さんとばったり田圃道で出会ってこないだ来た変な娘の話をすると、煙草をふかした爺さんは言った。
「良かったなぁ。惑わされんで。……喰われとったぞ」
——人魚が現れると大嵐になる。
あの美しい娘はもう二度と現れる事がなかった。
了
ゆらぐ、追憶に 熄香(うづか) @RurineAotsuki
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