「今日はゆっくり休みなさいね。会社には言っておくから」

 テーブルに薬とスポーツドリンクを置き、私は急いで出社の支度を始めた。晴夏は自分の部屋に戻ると言ったが、まだ本調子ではない彼を無理に動かすのは気が引けた。結局、私の部屋のソファでそのまま休ませることにした。会社に行く前に、晴夏が食べられそうなものをいくつかストックしておこうと、慌ててコンビニへと走った。


 午前中、オフィスは妙に静かだった。いつものようにカタカタと隣から響くキーボードの音がない。晴夏のデスクが空いているだけで、空気が違って感じる。

 そこにいるはずの人がいないだけで、こんなにも落ち着かないなんて。

 給湯室でコーヒーを淹れようとして、ふと晴夏のカップが目に入った。何度も借りては洗って返していた、あのクリーム色のカップ。手を伸ばしかけて、寸前で引っ込めた。昨日までは何気なく使っていたはずのそのカップが、今はそれが彼の存在そのものみたいに思えて、触れるのを躊躇ってしまった。

 私だけがこんなにも、彼の言葉に、彼の不在に、感情を揺さぶられている。

 晴夏の昨夜の言葉が頭の奥でこだまする。熱に浮かされていただけ。そう自分に言い聞かせても、あの熱い手の温もりや、潤んだ瞳の切実な光が、どうしても消えてくれない。

 午前中の会議中も、午後のデスクワーク中も、私の意識は常に隣の空席と、昨夜の晴夏の言葉を行ったり来たりしていた。

 もしあの言葉に、私がまだ気づいていないもっと深い意味があったとしたら?

 もし、晴夏が本当に私に何かを伝えようとしていたとしたら?

 そんなことを考える度、胸の奥がじわじわと熱を帯びる。晴夏は恋愛に興味がないんだとずっと思っていたけど、それは私が勝手に決めつけていただけではないのか。彼の寡黙さをただの「無興味」と解釈して、深く覗こうとしなかっただけではないだろうか。

 仕事が手につかない。隣に晴夏がいないだけで、こんなにも集中できないなんて。まるで私の日常の一部がごっそり抜け落ちてしまったかのようだ。

 夕方、やっと業務を終え、私は早々に会社を出た。足は吸い寄せられるようにアパートへと向かっていた。私の部屋には晴夏がいる。熱は完全に下がっただろうか。そして、彼は、昨夜の私に対する態度を、一体どう思っているだろうか。




 アパートの階段を駆け上がると、私の部屋のドアの隙間からわずかに明かりが漏れているのが見えた。よかった、起きてる。

 ドアを開けると、晴夏はソファに深く身を沈めぼんやりとテレビを見ていた。顔色はまだ完全に元通りではないが、額の冷えピタは外されていて、呼吸も落ち着いているようだ。テーブルには朝に用意したお粥の器が空になって置かれていた。

「晴夏、もう大丈夫なの?」

 私が声をかけると、彼はゆっくりとこちらを見た。

「ああ。熱も下がった」

「そっか、よかった。もう自分の部屋に戻れる?」

 そう尋ねると、晴夏は少しだけ迷うような素振りを見せた後、ゆっくりと立ち上がった。

「…悪いな、世話になった」

 そう言って彼はドアへと向かう。私はその背中を見つめたまま、思わず声をかけていた。

「あのさ、晴夏」

 振り返った彼の目には、もういつもの無表情が戻っている。昨夜のあの切ない表情は、やっぱり熱のせいだったのかもしれない。そう思って少し安堵する一方で、あれがただの夢だったのだとしたら──と、胸の奥が少し沈む。

「…じ、自分の部屋の鍵、持ってる?」

 咄嗟に出たのは、自分でもよくわからない確認だった。晴夏は一瞬首を傾げた後、自分のポケットを探り、数本の鍵束を取り出した。

「うん、持ってるけど」

 無造作にまとめられた鍵の中に、見覚えのある古びたデザインの鍵が混じっていた。

 あの鍵は、私の実家の物置の鍵だ。うちの物置は鍵が壊れていて、内側からも鍵がかけられる状態だった。それに気づいた幼い頃の私は、母に怒られたりした時、よく物置に閉じこもって拗ねていた。そんな母が「もしもの時のために」と晴夏に預けていたものだった。鍵を預けたのはずっと昔のことだし、私はそれを忘れかけていた。まさか晴夏が今でもそれを持ち歩いているとは思ってもみなかった。

 晴夏は本当に物持ちがいい。幼稚園の卒園記念に作ったカップもそうだ。そしてうちの物置の鍵まで、こんなに長い間持っているなんて。彼の物持ちの良さは、時々私には理解できないくらいだ。

「よかった。じゃあね」

 私がそう言うと、晴夏は静かに頷き、私の部屋のドアを開け外に消えていった。

 隣のドアが閉まる音を聞きながら私は呆然と立ち尽くした。

 彼の「物持ちの良さ」は、どこまでが「普通」で、どこからが「特別」なのだろう。


- - -


 その週末、私は実家に帰省した。久しぶりに会う両親は変わらず元気そうで、食卓には私の好きな料理がずらりと並ぶ。和やかな食事の途中、母が嬉しそうに切り出した。

「そういえば透、最近どうなの?いい人できた?」

 いつも通りの、他愛もない質問。けれど、なぜかその言葉が私の心に小さな棘のように刺さった。

「別に。いつも通りだよ」

 曖昧に答えると、母は少し残念そうに眉を下げた。隣で父が「そろそろ年頃だもんなぁ」と相槌を打つ。

「この間、同窓会だったんだけど、実咲と陽平付き合い始めたんだって」

 話を自分から逸らそうと、同窓会の話を持ち出す。母は目を丸くした。

「あら、そうなの?」

「すごいよねー、幼馴染で恋愛に発展するのってさ」

 私が感心したように言うと、母はフッと笑った。

「何言ってるの。幼馴染だからこそ、色々なことがわかるし安心なのよ。それに昔から知っている相手なら、変な心配もいらないでしょう?」

 母の言葉に、私は「そういうもんかなー」と曖昧に相槌を打った。すると、母はニヤリと口角を上げた。

「あんたははるちゃんとどうなのよ」

 完全にブーメランだった。しかも今一番触れてほしくないところに。私は「ないない!」と慌てて否定した。

「晴夏は家族みたいなもんだし」

 そう言って笑うと、母は私の目をじっと見つめてきた。

「あら、ほんとに?」

「ほんとに!」

 食い気味に言い返すと、母は父と顔を見合わせた。二人の視線が交錯する。

「…え、なに?どしたの?」

 怪訝に思って尋ねると、父が少し居住まいを正して口を開いた。

「実はな、透。父さんの会社の方の息子さんで、ぜひ透と見合いをと言われていてな」

「は…?」

 予想もしなかった言葉に、思わず声が裏返った。

「あんたにいい人がいるなら無理にとは思ったんだけど、そうじゃないなら、会うだけ会ってみたら?」

 母はなぜか楽しそうだ。お見合い?このご時世に?というか私が?

「い、いや、お父さん、私、お見合いなんて…」

 私は慌てて断ろうとした。まさかそんな話が自分に降ってくるなんて、これっぽっちも想像していなかった。

「まぁまぁ、そう言わずに。父さんの面子もあるし」

 困ったように眉を下げながら、父はなだめるような口調で言う。母もすかさず「そうよ、透。会うだけならいいじゃない。もしかしたら、素敵な出会いになるかもしれないわよ?」と畳み掛けてくる。

 両親がここまで熱心なのは初めてかもしれない。普段は私の自由にさせてくれる二人だが、今回は一歩も引く気がないらしい。

「でも……」

 言葉が続かない。確かに父の会社関係となると、むげに断るのは角が立つ。それに、彼氏がいない現状、わざわざ拒否する理由も…ないと言えばない。

 結局私は「会うだけなら…」という言葉で、渋々承諾してしまった。うんそうだ、会うだけ、会うだけなら問題ない。

 その時、ふと頭の片隅で、晴夏がこの話を知ったらどう思うのだろう、という疑問がよぎった。同窓会の後、アパートの部屋の前で言われた言葉。あの言葉の真意は、私にはまだ掴めない。そんなことを考えても答えが出るはずもなく、私はもやもやしたまま目の前の料理に視線を落とした。


- - -


 実家からアパートに戻って、数日が過ぎた頃。

 母からお見合いの日程が決まったという連絡が入った。週末の午後、都心のホテルラウンジ。相手の男性の簡単なプロフィールも送られてきたが、正直、ほとんど頭に入ってこなかった。

 お見合い当日までの一週間、私の頭の中は薄い靄がかかったみたいにぼんやりしていた。仕事中も、ふとした瞬間に隣のデスクへ視線が吸い寄せられる。いつも通り寡黙にパソコンに向かう晴夏。その横顔を見ていると、なぜか胸の奥がざわついた。


 週末、デパートの服飾フロアをぶらついていた。お見合いに着ていく服を選ばなければならない。普段カジュアルな服装が多い私にとって、このミッションは想像以上に難しい。店員さんに勧められるまま手に取ったのは、自分ならまず選ばないようなフェミニンなワンピース。試着室で着替え、鏡の中の自分を見つめる。

「……誰、これ」

 思わず漏れた言葉に、店員さんが「お客様、とてもお似合いですよ」と笑顔で返してくれた。けれど、どうにもしっくりこない。この服を着て見知らぬ男性と向き合う自分を想像すると、胸の奥に言いようのない違和感が広がっていく。

 この違和感は、一体何なのだろう。

 ふと、晴夏の顔が浮かんだ。もし私がこのワンピースを着て彼と会ったら、彼はどんな顔をするだろう。…いや、きっといつものように無表情で何も言わないだろうな。

 結局、その日は何も買わずにデパートを出た。お見合いの準備を進めようとすればするほど、私の心は、別の方向へ引っ張られていくようだった。


- - -


 そして、お見合い前日。その日のオフィスはいつもより静まり返っていた。明日に迫ったお見合いのことを考えると、私はどうにも落ち着かず、普段はしないようなミスを連発していた。書類の誤字を見落とし、メールの宛先を間違えそうになる。その度に心臓が大きく跳ねた。

 隣のデスクからふと視線を感じた。ちらりと目をやると、晴夏がパソコンから顔を上げ、じっとこちらを見ていた。その瞳は、いつもの無表情の奥に、何かを探るような鋭い光を宿している。

「…なんか、そわそわしてないか」

 低い声でぽつりと問いかけてきた。その言葉はまるで私の心を見透かしているかのようで、私は思わず肩を揺らした。

「そ、そんなことないよ!別に、いつも通りだし!」

 私は慌てて否定し、ごまかすようにパソコンのキーボードを叩いた。いつもならこんなに動揺しないのに、今の私には彼の探るような視線が妙に重く感じられた。

「…ならいいけど」

 晴夏はそう言うと、再びパソコンに視線を戻した。でもその横顔には、どこか釈然としない影が見えた。それが気のせいかどうか、私にはわからなかった。




 終業時間になり、私は急いで荷物をまとめると、足早にデスクを後にした。一刻も早く、晴夏の視線から逃れたかった。

 会社を出ようとしたその時、背後から「おい」と低く短い声が聞こえた。振り返る間もなく、右腕を掴まれる。驚いて顔を上げると、そこにはいつになく真剣な表情をした晴夏が立っていた。彼の瞳はまっすぐに私を射抜いている。

「…そんなに急いでどうするんだ」

 その声は、どこか不機嫌さを滲ませていた。私は掴まれた腕を引こうとしたが、びくともしなかった。

「別に、急いでないよ。疲れてるから、早く帰りたいだけ」

 できるだけ平静を装って返すけれど、心臓の動きは速くなる一方だった。このまま二人きりで駅まで歩くことを考えると、胸が締め付けられる。

「ふうん」

 晴夏は私の顔をじっと見つめたまま、それ以上は何も言わない。結局腕を放してはくれなかった。私は諦めて、彼と並んで歩き始めた。沈黙が続く。その間も、彼の視線が時折私に向けられているのを感じた。

 アパートの最寄り駅に着き、改札を抜ける。夜道も二人で並んで歩く。いつもなら他愛もない会話を交わすのに、その日はずっと言葉が生まれなかった。

 アパートの階段を上り、それぞれの部屋の前に立つ。私は自分の部屋のドアノブに手をかけようとした。その時だった。

「透」

 低く、しかし確かな声で名前を呼ばれた。驚いて振り向く。夜の闇と廊下の灯りのあわいに、真剣な表情の晴夏が見えた。その瞳が、躊躇いなく私を捉えている

「……お前、何か隠してるだろ」

 その言葉に、私は思わず息を呑んだ。心臓が跳ね上がり、全身から血の気が引く。

 何を、どこまで気づいているのだろう。このまま問い詰められたら、私は何を言えばいい?

 私は晴夏の目を真っ直ぐに見ることができず、視線を泳がせた。

「な、なにも隠してなんかないよ…」

 絞り出すような声で否定するが、それが嘘であることは、誰が聞いてもわかるほどだった。晴夏の顔は、普段の無表情とはかけ離れた、険しいものになっていた。

「ふざけんなよ」

 初めて聞く、低く、怒りの滲んだ声。私は凍り付いた。このままここにいたら、何を言われるかわからない。

「ご、ごめん、おやすみ!」

 ほとんど逃げるようにドアを開け、部屋に飛び込んだ。ガチャン、と重い音を立ててドアを閉める。鍵をかけ、ドアにもたれかかり、大きく息を吐いた。彼の戸惑うような視線が、背中に深く刺さるのを感じながら。

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