晴夏はただの幼馴染だと思ってた

髪川うなじ


「ふあぁ〜……」

 給湯室の白いシンクの前で淹れたてのコーヒーをマグカップに注いでいると、つい大きなあくびが出た。魂がふわりと体の外へ抜けていくような脱力感。時計の針は午後二時半を少し過ぎたところだ。

 ランチでほどよく満たされたお腹に、窓から差し込む春の日差し。まぶたの裏側から優しい誘惑が押し寄せてくる。ああ、なんて罪深い時間だろう。お布団を干してきたのは正解だったな。今すぐ会社を抜け出して、ふかふかの布団にダイブしたい。そんな現実逃避を頭の中でこっそり繰り広げながら、温かいマグカップを片手にデスクへ戻った。

「……飲みすぎ」

 右隣から、聞き慣れた声が飛んできた。

 顔を向けると、晴夏がパソコン画面から視線を外し、私のマグカップを一瞥する。その目はこちらの行動をすべて見透かしているように冷ややかだ。すぐにまたカタカタとキーボードを叩き始める。感情の起伏を微塵も感じさせない無表情。いつものことだ。

「だって眠くてどうしようもないんだもん。おかげでトイレも近くて困るけど」

「バカなの?そんなところで利尿作用ブーストするなよ」

 利尿作用ブースト。

 こういう妙にツボを突くワードを不意に放り込んでくるから困る。不意打ちの衝撃に笑いがこみ上げたが、癪なのでどうにか噛み殺した。

「バカって言うほうがバカなんですー」

 子どもみたいな言い返しをして、ズズッとコーヒーをすすった。カフェインの香りが鼻に抜けると、ほんの一瞬だけ、頭がすっきりした気がする。本当に一瞬だけ。すぐにまた意識に薄い膜が張り付いていく。

「お前、それもう五杯目だろ」

「え、なに、数えてたの?」

「嫌でも視界に入ってくるの」

 晴夏は深々とため息をつく。その冷えた視線は、もはや呆れを通り越して諦観の域に達している気がした。なんだか居心地が悪い。


 晴夏とは、いわゆる幼なじみだ。

 親同士が仲良くて、家も隣。ほとんど生まれたときからずっと、文字通り隣同士で生きてきた。幼稚園から高校まで、クラスは違えど同じ学校。私が短大、晴夏が四大に進んで、そこでようやく物理的に離れたけれど、お互い実家暮らしだったから、顔を合わせる頻度は大して変わらなかった。

 そして今。私が先に地元の中小企業へ就職し、二年後に晴夏もまさかの同じ会社へ。さらに、同じ部署で、隣同士のデスク。

 腐れ縁? いや、これはもう呪いだと思う。




 休憩時間。スマホをいじっていた晴夏がふと顔を上げた。それからデスクの隅に置いてあるクリーム色のマグカップに手を伸ばす。

 カップは、幼稚園の卒園記念にみんなで作ったものだ。もうだいぶ色もくすんでいて、口のところなんかは少し欠けてもいる。それでも晴夏はいつもこれでお茶を飲む。

 ちょうど口をつけようとしたとき。

「……お前、また俺のカップ勝手に使っただろ」

 低めの声で、ぽつりとつぶやくように言った。

「あ、バレた?」

 私はとぼけて笑ってみせる。たまに自分のマグカップを洗いそびれたりすると、つい彼のものを借りてしまう。もちろんちゃんと洗って戻すし、バレないように置き直してるのに、晴夏は毎回気づく。

「俺、コーヒー飲まないから。匂いでわかる」

「あーなるほど。めんごめんご」

 毎日飲んでる私にはもう香りが鼻に馴染みすぎてて、ちょっとやそっとじゃ気づかない。

「悪いと思ってないだろ」

 晴夏は眉間にうっすらシワを寄せた。

 まだ手にはカップを持ったまま。コーヒーの匂いが、きっと嫌な感じで残ってるんだろうな。

「一応、ちゃんと洗ってるよ?」

「当たり前だろ」

「もーなに?いいじゃんカップくらい。減るもんでもないし」

「透が使ってたら俺のなくなるでしょ」

 晴夏は呆れたようにそう言って、改めて自分のカップに視線を落とした。

 晴夏は本当に物持ちがいい。よく壊さずに残してるよな、あのカップ。

 気に入ってるのかな。口当たりがいいとか?……いや、さすがに、幼稚園児が作ったカップに“口当たりがいい”とかある?

 晴夏がカップを少し傾けた拍子に、底がわずかに見えた。拙い手つきで彫られた「はるか」の文字。


 晴夏が生まれたのは、それはそれはよく晴れた夏の日だったという。どこまでも澄み渡る青空と、眩しいほどに降り注ぐ太陽の光。その日に生まれたから「晴夏」。なんともストレートだ。小さい頃はよく「男なのに女みたいな名前!」と茶化されて、晴夏はよく涙を浮かべていたものだ。その度に私が茶化したやつらの前に仁王立ちして追い払っていたから、その情景は今でも鮮明に覚えている。ちなみに晴夏には二歳下の雪乃ちゃんという妹がいる。彼女もまた、雪がしんしんと降る冬の日に生まれた。今じゃ兄妹揃って「安直な名前だよな」とよく自嘲している。

 私の名前は透だ。私もまた、男みたいな名前だと揶揄われることもあった。透き通る、という字面は綺麗だけれど、響きはどこか中性的な響き。晴夏ほど気にしていなかった私は、言われるたびに「そうかなぁ?」と首を傾げていたものだ。そんな私は、晴夏という名前がすごく可愛くて、ちょっとだけうらやましくて、大好きだった。


 その時、スマホが小さく震えた。見ると、メッセージアプリの高校の同窓会のグループに新着メッセージが届いている。実咲からだ。

『来週の土曜日、久しぶりに集まらない?幹事は私と内田ね!みんな返事ちょうだい!』

 実咲かぁ。元気にしてるかな。 晴夏もメッセージを見たのか、「お前、行くの?」と聞いてきた。

「行くよ、晴夏は? 」

「……どうせ暇だし」

 これまた相変わらずな言い方。でもまあ、行く気はあるんだな。

 同窓会か。懐かしい顔ぶれに会えるのは、ちょっと楽しみだ。


- - -


 週末の同窓会は、思った以上に賑やかだった。

 卒業して数年経つと、みんな見た目も雰囲気も随分変わるものだ。結婚した友人、海外で働いている友人、夢を追いかけている友人……それぞれの近況報告に、会場のあちこちで笑い声が弾けている。

 私も晴夏も、高校の時と変わらないメンバーで固まって話をしていた。男女入り混じった輪の中心には、幹事を務めた実咲がいる。彼女は高校時代から明るく活発で、ムードメーカー的な存在だった。

「ねぇねぇ、ちょっと二人に相談があるんだけど!」

 そう言って実咲が私と晴夏の間に割って入ってきた。顔が少し赤いところを見ると、どうやらだいぶ飲んでいるらしい。

「私と陽平さ、実は付き合ったんだよ!」

「え!?」

 実咲が発した意外な告白に、私と晴夏は思わず声を揃えて驚いた。

 陽平といえば、高校時代から実咲といつも一緒にいた幼馴染の男の子だ。いつも気の置けない友人のようにじゃれ合っていた二人が、まさかいつの間にかそんな関係になっていたなんて。

「でね、最近ちょっとマンネリっていうか……幼なじみだから、ドキドキとかもうなくってさ。家族みたいになっちゃって。なんかこのままでいいのかなって思っちゃってるんだよね」

 実咲は私たち二人に顔を近づけ、真剣な目で訴えかけてきた。

「そこで幼馴染のスペシャリストの二人に聞きたいんですけど!幼馴染と恋愛ってどう思う!?」

 実咲の問いかけに、晴夏はなぜか少し顔を強張らせていた。

「なに?幼馴染のスペシャリストって?」

 私が声を出して笑うと、実咲は酔っ払った顔でニヤニヤと答えた。

「だって私と陽平は小学校からだけど、透と柳沢は生まれた時からの付き合いでしょ?格が違うってー」

 実咲の“格が違う”発言にさらにツボに入った私。ひとしきりひぃひぃ笑ったあと、顔の涙を拭いながら晴夏の方を向いた。

「まぁ確かに、ここまで一緒にいると家族みたいなもんだよね」

「………」

 晴夏に同意を求めたが、彼はなぜか無言で私から視線を逸した。

「むしろよく恋愛まで発展したよね。そこがすごいよ。うちとか絶対ないよ?」

 そう口にした瞬間、晴夏の表情がふっと固まった。その表情は、私には読み取れない複雑なものだった。

「だから実咲、残念だけど相談する相手間違ってるよ?」

「え〜そんなこと言わないでよ〜」

 実咲は口をとがらせてぶーっと不満そうに言った。

「でもさ、本当に悩んでるんだよ」

 実咲がグラスを置いて小さくため息をついた。

「陽平がさ、最近なに考えてるのか全然わかんなくて。幼なじみだから何でも話せると思ってたのに、肝心なとこになると黙っちゃうの。私ばっかり焦ってる気がして……この先どうしたいのか、ちゃんと向き合ってくれないんだよね」

 実咲は私と晴夏を交互に見た。少し潤んだその目が、なぜか長く晴夏のほうにとどまっている。

 晴夏はその視線から逃れるように、わずかに身じろいだ。そしてようやくぽつりとつぶやいた。

「……別に、焦る必要なんて、ないと思うけど」

 視線は合わせないまま。声もほんの少しだけ小さかった。

「晴夏は逆にもうちょっと焦ったほうがいいと思うけどね」

 私がさらりと言うと、晴夏は「は!?」と素っ頓狂な声を上げてこっちを見た。

「だって今まで誰とも付き合ったことないじゃん」

 その一言に、晴夏は口を開きかけて、すぐに閉じた。「そ、それは…」と小さく言いかけた声は喧騒に紛れて消える。いつもは澄ました顔をしてるのに、こんなふうに動揺するのはちょっと珍しい。

「えっ、そうなの?」

 実咲が目を丸くして、興味津々といった顔で晴夏をのぞき込む。

「そろそろ彼女くらい作りなよ〜」

 からかうように言うと、晴夏はますます気まずそうに視線を落とした。

「まぁ、しょうがないか。晴夏はあんまりそういうの興味ないもんね」

「………」

 私が言うと、晴夏は何も返さなかった。

「そう!うちもそうなの!」

 実咲が急に身を乗り出してきて、私と晴夏は反射的に「え?」と声をそろえた。

「告白も私からだったし、なんとなくぎこちないし……。あんまり恋愛に興味ないのかなーって、よく思うんだよね」

「へえ、そうなんだ」

 私は軽く相づちを打った。

 すると、待ってましたとばかりに、実咲が続けた。

「試すようなこと言うと、陽平ってはぐらかすの。肝心なとこで、するっと逃げちゃうっていうか……昔からそうなの」

 そう言って、再び晴夏の顔をじっと見つめる。その視線はどこか探るようでもあった。

「……逃げてるわけじゃ、ないと思うよ」

 晴夏がぽつりと答えた。その声は絞り出したように小さかったけれど、私にはちゃんと届いた。

「…ただ、どう答えたらいいか、わからないだけじゃないの」

 その言葉を聞いた瞬間、私はふいに、昔の晴夏を思い出した。

 幼稚園の頃。名前のことでからかわれて、すぐに涙目になっていた晴夏。その度に私がからかったやつらを追い払って、「はるちゃんはおとこのこなんだから、つよいつよいだよ」と頭を撫でていたっけ。いつからか、すっかり寡黙で、自分の感情を表に出さないようになったけど。彼の言葉の裏には、あの頃の泣き虫な晴夏が隠れているような気がした。

「えー!柳沢がそんなこと言うなんて珍しいじゃん。なんか意味深〜!」

 実咲がいたずらっぽく笑って、私と晴夏を交互に見る。けれど、晴夏はそれ以上なにも言わず、ただ目を伏せた。


 その時、近くのテーブルから声が聞こえてきた。

「そろそろ二次会の時間じゃね?店予約してるから行こうぜ~」

 その声に実咲が「やば、もうそんな時間!?」と、慌てて立ち上がる。

「ごめん!また今度、ちゃんと相談乗ってね!二人とも!」

 そう言って、実咲は他の友人たちに連れられながら、にぎやかに会場を後にした。

 残されたのは、私と晴夏だけ。急に音が引いていく。周りはまだ賑わっているのに、自分たちの周りだけすうっと静かになった気がした。

 ぽっかりと空いたその沈黙の中で、私はさっきの言葉を思い返していた。

 ──どう答えたらいいか、わからないだけじゃないの。

 確かな彼はそういうところがある。肝心なときほど口を閉ざす。何を考えているのか、わかりそうで、やっぱりわからない。

 なのに、なぜか先ほどの晴夏の伏せた瞳の奥に、いつもとは違う何かの感情が宿っていたように見えたのは、気のせいだろうか。


- - -


 会場を出ると、夜風が少しだけ肌寒かった。実咲たちを見送った後、私も晴夏も、特にもう誰かに話しかけるでもなく、自然と二人並んで駅へと向かった。

 私は短大を卒業して就職すると同時に一人暮らしを始めた。それから二年後、晴夏も大学を卒業して今の会社に就職が決まった。まさか私と同じ会社に就職するとは思っていなかったけど、彼の住む場所はてっきり別の方面だろうと思っていた。

 ところが、実家に挨拶に行った際、親同士が勢い込んで話していたのだ。

「晴夏も透ちゃんの近くの方が安心よね!」

 そう言って、親たちが勝手に、たまたま空いていた私のアパートの隣の部屋を晴夏のために決めてしまったのだ。彼も私も最初はその話に戸惑いを隠せなかったけれど、親たちの熱意と「幼馴染なら安心」という謎の信頼の前には、もはや抵抗する術もなかった。

 そんなことを思い出していると、電車の揺れに身を任せていた体が、最寄り駅に到着したことを告げるアナウンスでふわりと浮いた。駅を出ると夜道は街灯もまばらで、ひっそりと静まり返っている。アパートまで続く道を私と晴夏は黙って歩いた。

「なんだか、いつもより疲れたな」

 私が小さく呟くと、隣を歩く晴夏も「そうだな」とだけ返した。彼の表情は闇に溶け込んでよく見えない。

「それにしても、陽平も晴夏もさ、なんでそんなに自分の気持ちを話したがらないんだろ。どう答えたらいいかわからないだけって言った時の晴夏の顔、なんか変だったし」

 私が言えば言うほど、隣の晴夏から言葉が消えていく。まるで、彼に触れてはいけない話題に触れてしまったかのようだ。

 アパートの階段を上り、それぞれの部屋の前まで来た。私が部屋のドアノブに手をかけようとしたその時、晴夏が口を開いた。

「透」

 振り返ると、晴夏はいつもより少しだけ、いや、だいぶ真剣な顔で私を見ていた。夜の闇と、部屋の明かりが届かない廊下の狭間。彼の瞳が真っ直ぐに私を捉えている。

「今日の…柴の話だけど」

 晴夏の言葉が途中で途切れる。彼は何かを言おうとして、言葉を選んでいるようだった。

「…別に、焦る必要ないって言ったけど、あれは、俺がそう思ってるってだけだ」

 晴夏は相変わらず私の目を見ようとしない。しかし、その声ははっきりと、重く響いた。

「どう答えたらいいかわからないってのも、嘘じゃない。お前は、俺が何言っても、どうせ『興味ないんだ』って思うんだろ」

 その言葉に私はハッとした。確かに私はいつもそう決めつけていた。晴夏が寡黙で、感情を表に出さないから。そして、私が彼の恋愛について触れると、いつも曖昧に濁すから。

「それに……」

 晴夏は一度言葉を区切ると、ようやくゆっくりと私の方に視線を向けた。その瞳は闇の中でも微かに光を宿しているように見えた。

「お前がまた、誰かと付き合い始めるなんて言ったら……俺は、もっとどう答えたらいいか、わからなくなる」

 その言葉はまるで夜の静寂に吸い込まれるかのように小さかった。しかし私にはその一言一言が、鉛のように重く、そして熱を帯びて、胸の奥に深く突き刺さった。

 晴夏は、何を言っているんだろう。私と誰かの話なのに。…どうしてそれが、晴夏にとってそんなにも。

 私の頭の中は疑問符でいっぱいになった。彼の言葉の本当の意味を、私はまだ理解できていなかった。ただ、いつもは感情を読み取れないはずの彼の表情が、その夜は今まで見たことのないほど複雑で、切ない色を帯びていたことだけは、はっきりと胸に刻まれた。

「……ま、いい。もう遅いし、おやすみ」

 晴夏はそれ以上何も言わず、いつも通りの素っ気ない声に戻ると、さっと自分の部屋のドアを開け中に消えていった。残された私は、重いドアの閉まる音を聞きながら、その場に立ち尽くしていた。


- - -


 同窓会から数ヶ月が経ち、季節は巡って初夏を迎えていた。

 職場での日常は変わらない。相変わらず晴夏は私の隣のデスクで寡黙に仕事をこなし、私がコーヒーを淹れすぎれば「またかよ」と呆れたようにため息をつく。アパートでも、朝のゴミ出しや夜の帰り道で顔を合わせれば、他愛のない言葉を交わす。しかし、あの同窓会後の晴夏の言葉が、私の心に小さな、しかし確かな波紋を残していた。

 彼が発する一言一言、ふとした仕草、その全てを私は以前とは違う目で見るようになっていた。彼の視線がほんの一瞬私に向けられただけでも、なぜか胸がざわつく。コーヒーを淹れすぎて呆れる顔も、以前は「いつものこと」と流していたのに、今はその表情の奥に何か別の意味があるのではないかと考えてしまう。そんな自分に時々戸惑いを覚えた。


 そんなある日、季節の変わり目特有の不安定な空気が、晴夏の体調に影響を与え始めた。

 朝、いつものようにアパートの廊下で顔を合わせると、晴夏はいつもより顔色が悪いように見えた。目の下にはうっすらとクマができていて、顔色も少し青白い。

「晴夏、大丈夫?なんか顔色悪くない?」

 私が心配して声をかけると、彼は「別に」といつものように素っ気なく返した。しかし彼の声は少し掠れていて、明らかに本調子ではないことが分かった。

 職場でもその日の晴夏はどこか様子がおかしかった。普段は淡々とこなす仕事の手が時折止まる。キーボードを打つ音も、いつもよりゆっくりで力がないように感じられた。お昼の休憩中も、食欲がないのか、何も口にしていなかった。

「晴夏、本当に大丈夫?無理してない?」

 午後になって彼の顔色がさらに悪くなったのを見て、私は再び声をかけた。彼はちらりと私を見て、またすぐに視線をパソコンに戻した。

「……大丈夫」

 そう言うものの、彼の額にはうっすらと汗がにじんでいる。その声は朝よりもさらに掠れていた。彼の寡黙さが、かえって体調の悪さを隠そうとしているように見えた。いつもの彼なら、体調が悪いことすら悟らせないはずなのに、今日はそれが隠しきれていない。そのことに私の胸は漠然とした不安でいっぱいになった。

 終業時間が近づく頃には、晴夏はもうほとんどデスクに突っ伏しそうな状態だった。顔は真っ赤になり、額には汗がびっしょり。明らかに熱がある。

「晴夏、もうダメだよ!帰らなきゃ!」

 私が強めに言うと、彼はようやく顔を上げた。その瞳は潤んでいて、焦点が定まっていないように見える。

「……動け、ない」

 か細い声が辛うじて聞こえた。いつもの晴夏からは想像もできないほど弱々しい姿に、私の心臓がギュッと締め付けられる。こんな晴夏を見るのは、幼稚園で名前をからかわれて泣いていた、あの頃以来かもしれない。

「わかった、立てる?私が家まで送っていく」

 私は急いで自分の荷物をまとめると、晴夏のデスクの横に駆け寄った。彼の腕を掴み立たせようとするが、彼の体はぐらりと揺れた。予想以上に熱があるようだ。

「……悪いな」

 そう言って晴夏は私の肩にずるりと体重を預けてきた。彼の体は熱くて、その熱が私の服越しにじんわりと伝わってくる。こんなに近くで彼の体温を感じたのは、初めてかもしれない。


 会社を出てタクシーに乗り込む。幸い道は空いていて、アパートまではあっという間だった。晴夏はずっと私の肩に体重を預けたままで、微かに荒い息遣いが聞こえてくる。

 アパートの部屋に着くと、私は彼をどうにか自分の部屋へと連れて行った。晴夏の部屋は隣だが、鍵を取り出す余裕もなさそうだったからだ。部屋のドアを開け、明かりを点けると、私はそのまま彼をソファに座らせた。

「横になってて。熱測るから」

 晴夏は意識が朦朧としているのか、小さく頷くことしかできない。私は急いで救急箱から体温計を取り出し、彼の脇に差し込んだ。その間にも、彼の荒い呼吸と、熱を持った体が私を不安にさせる。

 ピピピ、と軽快な音が響く。体温計を取り出すと、そこには「39.2℃」の表示。

「うわっ、やっぱり……こんなになるまで我慢してたの!?」

 私は思わず声を上げた。晴夏は何も言わず、返事の代わりみたいにまばたきをした。

「ちょっと待ってて。氷枕と、冷えピタと……何か食べられそうなもの、あったかな」

 私は頭をフル回転させながら、部屋の中を慌ただしく動き回った。冷蔵庫を開けてみると、たまたま買っておいたゼリー飲料が入っていた。

 氷枕を用意し、彼の頭の下に滑り込ませた。額に冷えピタを貼り、ゼリー飲料の飲み口を彼の口元に持っていく。

「これ、飲めそう?少しずつでいいから」

 晴夏は言われるがままに、ゆっくりと口を動かした。その様子は、どこか幼い子どもみたいだった。

 看病しながら、私は晴夏の顔をまじまじと見つめた。普段は感情を閉ざしている彼の顔が、熱で赤く染まり、無防備にさらされている。いつもは整えられている前髪が、汗で額に張り付いている。眉間にはうっすらと皺が寄っていて苦しそうだ。私は無意識のうちに彼の額に触れた。熱い。やっぱり我慢してたんだ。

 その時、晴夏が小さく唸り、わずかに目を開けた。彼の潤んだ瞳が私を捉える。

「……透」

 か細い声で私の名前を呼んだ。そして、まるで夢の中の出来事のように、そっと私の頬に手を伸ばしてきた。熱い、けれど、優しいその手が、私の頬に添えられる。

「……ずっと、傍にいて……」

 その言葉は、ほとんど聞こえないほどの囁きだった。彼の声は熱に侵され、溶けてしまいそうに不安定だった。それでも、彼のその手に込められた熱と、彼の瞳の奥に見えた切実な光は、私の心を強く揺さぶった。それは、家族に対する甘えとも、友人に対する信頼とも違う、もっと深く、曖昧な感情のように思えた。

 彼はそのままふう、と息を吐き出すと、意識が途切れたのか、再び静かに目を閉じた。

 私は彼の隣に腰を下ろし、寝顔を見つめた。呼吸が楽になるように、氷枕をそっと調整する。夜は、まだしばらく、終わりそうになかった。


- - -


 翌朝、目覚まし時計が鳴るよりも早く目が覚めた。

 ソファでは晴夏はまだ眠っていた。額に触れると、昨夜よりは熱が引いているようだ。安堵の息を漏らす。

 私は彼に毛布をかけ直し、朝食と薬を用意しようとキッチンへ向かった。

 晴夏が目を覚ましたのは、私が簡単なお粥を作り終えた頃だった。

「…ん……」

 小さく呻きながら目を開けた彼に、私はホッと息をついた。

「晴夏、気分どう?熱は?」

 そう尋ねると、彼はゆっくりと体を起こした。顔色はまだ少し悪いが、昨夜よりはだいぶましに見える。

「……大丈夫」

 いつもの晴夏の声だ。熱に魘されていたあの弱々しい声とはまるで違う。

「そっか。よかった。とりあえず、これ食べられそう?」

 私はお粥を差し出した。晴夏は無言で受け取ると、ゆっくりとスプーンを動かし始めた。数口食べた後、彼はちらりと私を見た。

「俺、昨日……」

 晴夏の言葉に、私の心臓がドクンと跳ねた。

 ──来る。

 彼の昨夜の言葉、あの甘えるような囁き、あれは一体…。

「は、晴夏……昨日言ってた……“あれ”、なんだけどさ……」

「あれ…?」

 私が恐る恐る切り出すと、晴夏は小さく首を傾げた。しばらく考え込むように黙った後、口を開いた。

「…俺、なにか言った?」

 彼の顔には困惑だけが浮かんでいた。私は息を呑んだまま言葉を失った。

 ──覚えてない?

「いや、ううん、なんでもない!忘れて!全然たいしたことじゃないから!」

 反射的にそう言ってしまった。思ったよりも大きな声が出てしまって、我ながら驚いた。私の声に晴夏はますます怪訝な顔をする。目を細めて私の顔をじっと見つめていたが、やがて小さく肩を竦めると、再びお粥を口に運んだ。

 その仕草に、私は何とも言えない気持ちを抱えたまま、ただ彼の食べる様子を見守っていた。

 彼のあの言葉は、一体何だったのだろう。答えが出るはずもない疑問を抱えながら、私は曖昧な笑みを浮かべて、目の前の彼を見つめ続けた。

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