山本くんの一言で、私の朝は完全に彼のペースに巻き込まれた。デスクに座ってからも、パソコンの画面に視線を向けながら、横目で彼を盗み見てしまう。

 でも、山本くんは本当に、何もなかったかのように完璧だ。淡々と仕事をこなし、上司から声をかけられれば柔らかく応じ、時折見せる笑顔はいつもの爽やかな後輩のそれだった。

 意識してるの…ほんとに、私だけ…?

 胸の奥がざわざわと落ち着かないまま、午前中の業務を終えた。ランチタイムになり、私はスマホを手に、ある同期に連絡を取った。

『麻美、今から中庭?相談したいことがあるんだけど…』

 すぐに『いいよ、いつものベンチで待ってるね』と返信が来た。

 麻美は高校からの親友で、大学も同じだった。職場では違う部署だけど、お昼に会社の中庭で落ち合うのが私たちのお決まりだ。彼女に話せば、この胸のモヤモヤを少しは整理できるかもしれない。


 お弁当を手に中庭へ向かう。木々の緑が目に優しく、風が心地よい。いつものベンチには、すでに麻美が座ってスマホを弄っていた。

「麻美、ごめん、待たせた?」

「ふうちゃんいらっしゃい。なに相談って?顔めっちゃ真剣じゃん」

 麻美は私の顔を見るなり、心配そうに眉を寄せた。私の表情はそんなにも分かりやすかったのだろうか。隣に座り、早速本題を切り出した。

「あのね麻美…実は昨日、山本くんから告白されちゃって…」

 私の言葉を聞いた麻美は、特に驚いた様子もなく、ただ淡々と自分の弁当箱を開けている。

「ああ、やっと告ったんだ」

 あまりにも普通に返されて、私は目を丸くする。

「えっ、麻美、知ってたの!?」

「そりゃそうでしょ。あいつ分かりやすすぎだっつの。ふうちゃんが鈍すぎるんだよ」

 麻美は私の話を食い入るように聞くでもなく、自分の卵焼きを箸でつまみながら、サバサバとした口調で言い放った。その歯に衣着せぬ物言いは、相変わらずだ。

「私がふうちゃんと話してる時とか、横目でチラチラ見てるのが丸わかりだったし。飲み会でも、ふうちゃんのグラスが空く前に頼んでたろ。あれ、他のやつには絶対やってないからね」

 麻美の言葉に、私は昨日までの山本くんの行動を思い返す。言われてみれば、確かにそうかもしれない。飲み会でグラスが空く前に「先輩、次は何にしますか?」と聞かれたことや、私が少しでも困った顔をすると、すぐに彼が気づいてくれたこと。それは私にとって「気が利く後輩」の範疇だった。でも、麻美の言葉を聞いて、それが単なる気遣いではなかったのだと、今更ながらに気づく。

「で?なんて返事したの?」

 麻美は私の混乱などお構いなしに、淡々と問いかけてきた。

「いや、それが…まだお返事してなくて。山本くんも、返事は急がないって」

 私がしどろもどろに答えると、麻美は呆れたように肩をすくめた。

「なんだよ、ヘタレだなーあいつ」

「そっ、そんな言い方!」

 思わず反論すると、麻美はフッと鼻で笑った。

「まぁこの場合、一番ヘタレなのはふうちゃんだけどね?」

「うっ……」

 麻美の図星を突く言葉に、私はぐっと言葉を詰まらせた。確かに、そうかもしれない。私は何も言えずにただ顔を赤くするばかりだった。

「いいじゃん、付き合えば?悪くないと思うよ山本」

 麻美はサンドイッチを頬張りながら、あっさりと言った。その軽さに、私は思わず反論する。

「そ、そんな簡単に決められないよ」

「ふうちゃんが難しく考えすぎなんじゃないの?まあ、決められないから今私に相談してるんだろうけど」

 麻美の言葉はいつも的を射ている。その通りだ。私は自分で答えが出せないから、こうして麻美を頼っているのだ。

「だって、私にとっての山本くんは、可愛い後輩で、優しい弟みたいなもので…」

 私が苦しい言い訳のように言葉を続けると、麻美は冷ややかな目で私を見た。

「昨日までは、でしょ?それに、山本がそれ聞いたらだいぶ傷つくよ?」

 ドキンと心臓が大きく跳ねた。昨夜山本くんの前で無意識に「可愛い弟みたい」と言ってしまったことを思い出す。あの時の彼の一瞬伏せられた視線と低く絞るような声。彼の感情を私は何ひとつ汲み取れていなかった。今になって、麻美の言葉がその重みを突きつける。全身から冷や汗が滲むような感覚に襲われた。

「でも山本、告っといて返事は急がないって、どういうつもりなんだろ?」

 麻美はふいに興味深そうな顔で顎に手を当てた。私の混乱とは裏腹に、彼女は冷静に状況を分析しようとしているようだ。

「たぶん、私が動揺してたからだと思う…あ、でも…」

「でも?」

 麻美が訝しげに私を促す。

「…もう遠慮しないって、言われた…」

「……ほーん?」

 麻美は口角を上げてニヤリと意味深な笑みを浮かべた。

「ふうちゃんはさ、山本から告白されてどう思ったの」

 麻美は私の様子をじっと見つめながら、核心を突くように問いかけてきた。

「どうって……びっくりして、信じられなくて」

 私は頭の中の整理ができていないまま、正直な気持ちを口にした。

「うん、そうじゃなくて、嫌だった?」

「え…?」

 麻美の問いかけに言葉を失う。

「嫌だった?嫌じゃなかった?」

 麻美は私の躊躇を許さず、真っ直ぐに見つめてくる。

 嫌だった…?確かに驚きはした。戸惑いもした。でも、嫌悪感は…少しもなかった。むしろ、あの真剣な眼差しは、胸を強く締めつけた。

「………嫌……では、なかった」

 その言葉を聞くと、麻美はまるで全てを見通していたかのように、満足そうにフッと笑った。

「そう。じゃあしばらく様子見だな」

「え!?」

 あまりにあっさりした言葉に、思わず声を上げる。

「山本だって待つ覚悟くらいしてんだろうし、焦っていいことなんてなんにもないからね」

 麻美はそう言い放つと、パチリと音を立ててお弁当の蓋を閉めた。

「それに、山本の“無遠慮”、私すごーく興味ある」

 麻美の目が、まるでこれから始まるショーを楽しみにしているかのように輝いている。

「麻美楽しんでるでしょ!?」

 私の叫びに、麻美は肩をすくめて、悪びれる様子もなくニヤリと笑った。私の混乱と対照的に、彼女はすべてを掌で転がしているかのようだった。


- - -


 昨夜、橘先輩に告白した。一人の男として、隠してきた好意を、ストレートに伝えた。先輩は驚きで固まっていたが、俺は「返事は急がない」と伝え、「明日からはもう遠慮しません」と宣言もした。

 今朝、先輩が出社してきたとき、少し戸惑ったような顔をしていたが、俺はいつも通りに振る舞ったつもりだ。眼鏡をかけた先輩の姿が可愛らしくて、思わず口をついて出た一言に、彼女がわずかに肩を揺らしたのを見逃さなかった。

 あれは…伝わったはずだ。

 そう確信していた。

 だが午前中、普段では考えられないようなミスをした。単純なデータ入力で数字をひとつ間違え、提出資料にも誤字があった。すぐに修正はしたが、周囲の視線が一瞬だけざわめいたのを感じた。

「山本、珍しいな」

 昼時、社食でトレイを持ち列に並んでいると、背後から陽気な声が飛んできた。振り返ると、同期の星野が、あの眩しい笑顔で立っている。

「どうした?なんかあったか?」

 星野は俺の顔を覗き込むようにして言う。

 こいつは俺とは正反対のタイプだ。感情がすぐ顔に出るし、誰とでもすぐに打ち解ける。ミーハーな一面もあるが、困っている人間がいれば放っておけない。入社時の研修で顔を合わせて以来、何かと絡まれてきた。そして、俺が橘先輩に片想いしていることも、唯一知っている相手だった。

「いや、なんでもない。ただ少し考え事してただけだ」

 取り繕うように答えたが、星野はそんな俺の言葉など歯牙にもかけず、列に並びながらニヤついた。

「へぇ?お前が会社で考え事なんて相当じゃん。いつも鬼の集中力なのに」

 呆れたように笑うその声が、妙に耳に残る。

 午前中の俺は確かにおかしかった。どんなに目の前の業務に向き合おうとしても、思考の端には昨夜の先輩の驚いた顔が張り付いていた。

 無言のままトレイに食事を乗せる俺を、星野は面白がるように横目で見ていた。


 席に着くと、星野は当然のように向かいに腰を下ろす。

「あー、腹減った!いただきまーす!」

 大きな声で手を合わせる星野につられ、俺も遅れて小さく手を合わせる。

「……いただきます」

 星野は本当に腹が減っていたらしく、しばらくは「うまい、うまい」と定食を頬張っていた。だが突然、箸を止めると真剣な顔で俺を見た。

「んで?何があったか話せよ」

 俺の箸もピタリと止まる。こいつ、俺を逃す気がないな。

「……別に、何もない」

 素っ気なく返すが、星野は眉ひとつ動かさずに言った。

「何もねぇって顔じゃねえよ。お前が初歩的なミス連発すんの、入社以来初めて見たぞ」

 図星。視線を逸らした瞬間、自分の内面がここまで揺れていることに気づかれるのが少し悔しかった。

「……大したことじゃない」

「大したことじゃねえなら、なんで言えねえんだよ」

 星野はお茶を一気に飲み干し、芝居がかった調子で「まさか…」と呟く。そして、探るような視線で俺を射抜いた。

「…振られた?」

 星野の言葉に、俺は苛立ち混じりに即答した。

「違う。まだ振られてない」

「まだ?」

 星野の問い返しに、しまった、と内心で舌打ちする。余計な一言だった。これはもういよいよ逃げ場がない。俺は観念して小さく息を吐いた。

「……先輩に、告白した」

 星野の目が一気に見開かれる。そして食堂中に響き渡りそうな声が続いた。

「マジでか!?」

 周囲の視線が一斉にこちらに集まるのを感じる。

「…声が大きい」

 低く咎めるように言うと、星野は「あっ、悪ぃ」とわざとらしく後頭部を掻いた。けれどその目は好奇心でキラキラと輝いている。完全にテンションが上がっているのがわかった。

「で?で?いつ告ったん?」

「……昨日」

「マジかよ!?俺の知らない間にそんな急展開が…!」

 星野はボリュームだけは抑えたものの、前のめりになって俺に詰め寄る。

「んで!?さっき“振られてない”って言ったってことは…!?」

 彼の興奮は最高潮だ。

「まだ返事はもらってない」

「はぁ!?」

 またしても星野は声を張り上げ、俺が味噌汁を啜りながら睨むと、「しまった」と口を押さえた。だが目の輝きはまったく消えない。

「返事もらってないって…どういうことだよ?」

 今度はわざとらしいくらい小声で、身を乗り出してくる。

「…先輩、明らかに動揺してた。やっぱり、俺のことをそういう目では見ていなかったんだと思う」

 俺は正直に答えた。先輩のあの驚きようを見れば、俺の好意など微塵も伝わっていなかったのは明白だ。

 星野は一瞬きょとんとした顔になり、それから勢いよく言った。

「まさかここで諦めんのかよ!?」

「そうは言ってない」

 自分に言い聞かせるように、きっぱりと答えた。

「困らせたいわけじゃない。先輩にはゆっくり考えてほしい。だから昨日は返事を急がなかった」

「お、お前…どっしり構えてんなぁ…」

 目を丸くして感心する星野に、少し苦笑する。

「焦ってないわけじゃない。でも、全部壊したら元も子もないからな」

 そう。決して余裕があるわけじゃない。正直、一刻も早く先輩からの返事が欲しい。だが俺が焦って追い詰めれば、きっと先輩は困惑して、俺から逃げてしまうだろう。それだけは絶対に避けたい。

 それに…社内には、あの優しさや柔らかさにほのかに惹かれている男たちがいるのも知っている。本人は全く気づいていないだろうが、それが唯一の救いだった。

「でも、じゃあこれからどうするんだ?」

 星野が問いかけてくる。その瞳は期待と好奇心でいっぱいだ。

「もう気持ちは伝えた。だから、今までみたいに遠慮する必要はない」

「なるほど…つまり、これからはさらに積極的に落としにかかると」

 名探偵のように頷き、ニヤリと笑う星野。まったく、こいつの表情の切り替えは面白いほど早い。

「ま、そういうことなら俺は今まで通り静かに見守るだけだな」

「静かに…?」

 思わず眉をひそめる。既に十分はしゃぎ倒していると思うが。

「でも俺にできることがあれば言えよ。協力するからな」

 星野はそう言って俺の肩を叩き、ニカッと笑った。

 暑苦しいやつだが、ほんの少しだけ、頼もしさを感じてしまった。


- - -


 ランチタイムに麻美から散々からかわれたせいで、午後の業務もまったく身が入らなかった。山本くんがいつも通りの落ち着いた顔で仕事をこなす姿が視界に入るたび、昨夜の告白と今朝の「眼鏡」発言が頭の中をぐるぐる回る。

 私の鈍感さのせいで彼を傷つけたかもしれない、という後悔。そして、これから彼がどんな“遠慮しない”を見せてくるのか、という得体の知れない警戒心。心臓はずっと落ち着かず、浅い呼吸を繰り返していた。

 そんな状態で、山積みの資料整理に取り掛かったのは完全に判断ミスだった。溜まった請求書と納品書の突き合わせ作業は、地味ながら集中力を要する。眼鏡越しに数字を追っていると、次第に目がチカチカしてきて、眉間に力が入る。

「んんん……」

 思わず低く唸ったその瞬間、背後からスッと人影が近づいてくる気配を感じた。振り返る間もなく、私のデスクのすぐ横。ほとんど肩が触れそうな距離に、山本くんが立っていた。心臓が一気に跳ね上がる。

「先輩、何かお困りですか」

 いつも通りの丁寧な声。でも、耳元で響くせいか、妙に甘く感じる。恐る恐る顔を上げると、彼の端正な横顔がすぐそこにあった。近い。視界いっぱいに広がる彼の顔。ほのかに漂うシャンプーの香りが、さらに私の心拍を乱す。

「あ、やま、山本くん……!い、いえ、大丈夫、です…」

 動揺のあまり、しどろもどろになってしまう。だが彼は一切気にする様子もなく、すっと私のデスクの上に視線を落とす。

「請求書の突き合わせですね。よろしければ、私もお手伝いしましょうか」

 そう言いながら、白いシャツの袖口が私の腕に触れそうなほどの距離まで近づく。彼の指先が私が見ていた資料の上をなぞり、スッとある箇所を示した。

「ここ、重複しているようです」

「え、あ、ほんとだ!」

 彼の指摘は的確で、私は助けられた気持ちになった。さすが山本くん。冷静で、仕事ができて、頼もしい──けれど、顔が近すぎて視線を上げられない。資料に目を落としながら、心臓がバクバクと暴れていた。これが「遠慮しない」ってことなの…?

「先輩、そのペンケース、可愛いですね」

 ふいに視線をペンケースへ移した彼の声に、肩がビクッと跳ねた。デスクの隅に置かれた、学生時代から使っているキャラクターものの古びたペンケース。

「えっ?これ、可愛いかな?もうだいぶ使ってて…」

「はい。先輩の雰囲気にとてもよく合っています。普段はあまり可愛らしいものをお持ちにならない印象でしたので、少し意外でした」

 穏やかに告げる彼の言葉に顔が熱を持つ。プライベートまで見られているような、なんとも言えない気恥ずかしさに襲われた。

「あ、あはは…もう、年季入りすぎてて恥ずかしいくらいなんだけどね…」

 ぎこちなく笑う私に、山本くんはゆっくり微笑んだ。そして、その視線がペンケースから私の顔に戻る。眼鏡越しにじっと見つめられ、背筋に電流が走った。

「いいえ。とても素敵ですよ、先輩」

 その言葉と真っ直ぐな眼差しに、心臓が止まりそうになる。これが「遠慮しない」アプローチ。彼の言葉一つ一つが私を包み込み、そして着実に距離を詰めてきている。どうしていいかわからず、私は無意識にペンを握る手に力を込めていた。


- - -


 山本くんの「遠慮しない」アプローチは日を追うごとに増していった。私が少しでも困った顔をすれば、すぐに背後から「お手伝いいたしましょうか、先輩?」とさも当然のように声をかけてくる。質問すれば隣に身を寄せて画面を覗き込み、そのたびに彼の清潔な香りがふわりと香って、私の心臓をドッと鳴らした。他の部署の男性社員と話していると、いつの間にか山本くんが近くにいて、さりげなく会話に入ってきたり、仕事の用件を装って私を連れ出したりすることも増えた。どれもこれも、彼にとっては「遠慮しない」アプローチなのだろう。

 そんな状況に、私の心は常にざわついていた。彼を「可愛い弟みたい」としか思っていなかったはずなのに、毎日毎日、これほどまでに近くにいて真剣な眼差しを向けられれば、意識しないわけがない。彼の行動一つ一つに、私の心臓は敏感に反応するようになっていた。


 また別の日。その日の業務も終わり、時計はもう九時を回っていた。さすがにこの時間になると、フロアに残っているのは私と山本くんだけだった。

「お疲れ様でした、橘先輩」

 山本くんが完璧に片付いたデスクから立ち上がると、私の方に視線を向けた。

「あ、お疲れ様、山本くん」

 私も急いでパソコンをシャットダウンし、鞄を持って立ち上がった。二人でオフィスを出て、静まり返った廊下からエレベーターホールへと向かう。

 エレベーターホールには、私たち二人だけ。来客用の大きなエレベーターはすでに動いていないようで、社員用の小さなエレベーターの「↑」のランプが点滅している。なかなか来ない。フロアの奥から別の社員がエレベーターに近づいてくる気配はない。どうやら本当に私と山本くんだけのようだ。

 その時、「チン」と心地よい音を立てて、エレベーターが到着した。扉がゆっくりと開く。私たちは乗り込み、山本くんが閉めるボタンと一階のボタンを押した。

 密室となったエレベーターの中は、途端に静寂に包まれた。二人きりになると妙に空気が重く感じられる。階数表示が一つ、また一つと減っていく音が、やけに大きく聞こえる気がした。

「……今日は、お疲れのようですね、先輩」

 沈黙を破ったのは、山本くんの声だった。彼の声は普段のオフィスでのそれよりも少しだけ柔らかく、囁くような響きがあった。

「え、あ、そうかな?そんなこと、ない、よ…?」

 ごまかそうとするけれど、彼の視線が真っ直ぐに私に向けられているのを感じる。最近は彼の視線を感じるだけですぐに顔が熱くなってしまう。

 山本くんは、私の隣に一歩、いや、半歩だけ近づいた。ふわりと彼のいつもの香りが私を包み込む。密室であるエレベーターの中で、距離がいつもよりずっと近く感じられた。

「いえ、顔色が少し良くないです。目元も少し赤い。きっと、昨日もあまり眠れていないのでしょう」

 そう言って山本くんはゆっくりと手を上げた。彼の指先が私の頬のすぐ横を通り過ぎ、私の目元のすぐそばで止まる。

「俺は、昨日の夜も、ずっと先輩のことが頭から離れませんでしたから」

 彼の言葉が耳元で熱を帯びて響く。それは、私への気遣いのように聞こえながらも、彼が私をどれだけ想っているのかを、静かに、けれど確実に伝える言葉だった。

 心臓が、ドクン、と大きく鳴る。彼の指先が、私の頬に、本当に軽く、触れた。その瞬間、全身の血液が一気に顔に集まるような熱い感覚に襲われる。

「…あ、あの…やま、もと、くん…?」

 情けないほどか細い声しか出なかった。私はただ彼の視線から逃れるように、視線をエレベーターの階数表示へと向けた。早く着いて。早く、この密室から解放してほしい。

 それと同時に、彼がこのまま何も言わずに離れていってほしくない、という矛盾した気持ちも芽生えていることに、私は気づかないふりをした。

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