第30話 めぐりくるとき
入院したことのない湯村は、鷹尾の家を訪問するにあたり、なにかお見舞いの品が必要ではないかと考え、成川へ意見を求めた。
「いるかよ、そんなもの。おまえの身ひとつで充分だ」
さきを歩く成川の表情は見えないが、そんな軽口を云われても悩ましい。
鷹尾の暮らす屋敷は、古めかしい木造家屋で、のきをならべる新築の住宅より目立っていた。
「春馬、おれだ。きたぞ」
木枠の玄関戸のまえで、成川は鷹尾を呼んだ。声を聞いて、内側で動く気配がある。横になっていたのだろう。衣摺れの音が、あとから追いついた湯村の耳にも聞き取れた。離れのなかへ足を踏みいれたとき、なぜかなつかしい空気を感じた。木彫りの熊の置物や桐簞笥、湿った畳のにおい、格子窓に細い廊下など、昔ながらの内装で、寝室の
成川は再会の席を用意してくれた張本人だが、三人での会話は気まずいと思った湯村は、まぎれもなく鷹尾に心を奪われていた。ほんとうは世話を焼く義務などないくせに、湯村を好きな男のところまでみちびいた成川は、「じゃま者は消えてやるから、ふたりきりで話せばいいさ」といって、廊下の途中で足をとめた。
「成川さん……」
「行けよ。春馬が待ってるぜ」
「……で、ですが」
「ですがじゃない。さっさと行け。ここまできて、おれに遠慮するな。好きなだけ語りあえ」
成川は、困惑の表情を浮かべる湯村を残して玄関までもどり、段差に腰をかけて靴を履くと中庭へでた。引き戸をしめる音と同時に、奥から「はいれよ」と声がした。いつかの声がよみがえる。襖の向こう側にいる人物は、まちがいなく鷹尾本人である。湯村は、そっと、秘密の境界をひらいた。
「ひさしぶりだな。こんな恰好で悪いが、勘弁してくれよ」
「あなたが……、鷹尾春馬さん……だったのですね……」
「ああ。
「なぜ、こんなまわりくどいことを……、ぼくが、どんな思いであなたをさがしたか……」
泣きそうな顔でたたずむ湯村を、鷹尾が手まねきする。「もっと近くにきてくれ」
病人らしく薄ものの
「緊張しているのか? 楽にしろよ。……なんなら、
「……それ、本気で云ってますか?」
「ああ。湯村のあえぎ声が聞こえれば、市弥のやつは、気を利かせてくれるだろうからさ」
「そんなにぼくをあえがせたければ、早く元気になってください。これ以上待たせるなんて、恋人失格です」
「それが湯村のこたえか? 安心しろ。復学の手つづきは済ませてある。……のどが渇いたな。なにかのむか」
フルーツ牛乳がのみたい気分の湯村は、大学の構内にある自動販売機で、もういちど鷹尾と出逢うことを約束して、互いに目を瞑り唇を重ねた。渇いた口腔が鷹尾の気息で潤ってゆく。
「……んっ、……んっ」
「これがはじめてじゃあるまいし、キスが下手だな」
「は、はじめて……です……」
「ふうん? そういうことにしておくよ」
「ほんとうです。好きなひとと……するのは……」
腕を引かれて布団のうえに倒された湯村は、鷹尾の首筋へ抱きついた。ほしくてたまらないぬくもりの持ち主である鷹尾は、湯村の期待どおり熱い口づけをくり返したあと、「いったい、おれのどこに惚れたんだ」と、顔をのぞきこんできた。
「あなたこそ、ぼくなんかでいいのか、よく考えてください……。こんなことをして、後悔しませんか……?」
「あいにく、後悔する予定はない。おまえを見つけたのは、おれのほうだからな」
「……オープンキャンパスで」
「あの日、おまえに逢ったあと、調子が悪くなってな。療養にここまで時間がかかるとは誤算だった。毎日布団のうえだと、躰がなまってしかたがない。早く運動したいぜ」
「無理はしないでください。あなたが健康でいてくれなきゃ、ぼくはまた、大学でさびしい思いをします……」
「煽るなよ。これでも自制しているんだぜ。まあ、それだけ愛されているってことか。……感謝する」
鷹尾は笑みを浮かべると、湯村が生理現象を引き起こすまえに布団から追いだした。信じられいことが起きている。鷹尾と、これほど会話が通じるとは思わなかった湯村は、もはや手になじむ感触の図面を取りだし、「鷹尾さんのものです」といって差しだした。
「なつかしいな。一年のころに書いたやつだ。……で、なんで湯村が持っているんだ?」
青焼きを一瞥しただけで受け取らない鷹尾は、寝巻の衿をあわせてたずねた。
「これを、ぼくに見せるように成川さんへたのんだのは、あなたでは?」
「おれが? あいつにたのんだのは、湯村が浮気しないように見張る役だぜ」
「……う、浮気って……」
「変な虫がつかないように、湯村を守ってくれとは云ったが、図面は、市弥にやったものだ。あいつがそれをどうつかおうと勝手だが、まさか、興味を引く道具にするとはな」
意外な事実が発覚したが、湯村が直面している問題のほうが深刻だった。さきほどから、視界がぼやける。涙がとまらないのだ。うれしいのか悲しいのか、じぶんの感情さえわからなかった。枕もとに置いてあるタオルを差しだす鷹尾は、「
実のところ、互いの気持をたしかめあったふたりは、もう交わすことばがなかった。鷹尾は、湯村の涙がとまるまで、ずっと昔に書いた図面をながめた。なぜ、当時のじぶんは病院の設計図を書いたのか、その理由をすっかり忘れ果てていたが、ふたたび青焼きを手にした今、胸がざわついた。
✦つづく
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