第7話 キス・2
その晩、雨はふりつづけた。
朝早く、鷹尾のビニール傘をさして大学に登校した湯村は、正面玄関にたたずみ、本人があらわれるまで待機した。雨のせいで気温は低く、視界も悪いが、前髪のすきまから目を
「おはようございます」
湯村の挨拶に「おはよう」とこたえる鷹尾は、屋根の下で折りたたみ傘をとじた。湯村の手からビニール傘を受け取ると、折りたたみ傘で、ポカッと、軽く頭をたたく。
「痛いです。なにするんですか」
「受け身のわりに、これくらいで痛がるとか笑える」
「な、なんですか、それ!」
「べつに、そのままの意味だけど」
筒型ホルダーの図面ケースとショルダーバッグを肩がけにしている鷹尾は、建築科の四年生である。十八歳の湯村は、三年後になっても、鷹尾のような学生には
「そんなに見つめるなよ。サービスしてやろうか」
「……けっこうです」
「期待してるくせに」
「してません(なんの?)」
「ちょっと笑ってみろよ」
「……笑う?」
「笑い方を知らないのか」
「か、からかわないでください」
「頰が紅いぜ」
「あなたが、おかしなことばかり云うから……」
「ふうん、おれのせいなんだ?」
「し、失礼します!」
何度目かの脱兎は失敗に終わる。鷹尾に手首をつかまれ、壁ぎわへ追いこまれた。……顔と顔が近い。いくら人影が見あたらないとはいえ、正面玄関には監視カメラが設置されている。守衛室のモニターに映りだされるふたりは、警備員の誤解をまねきかねない会話をつづけた。
「やめてください……」と、
青ざめて硬直する湯村は、ふるえる声で精いっぱい抗議した。
「鷹尾さん……、いやだ……」
「なにがそんなにいやなんだ? おれは、どこもふれてないぜ」
手首をつかまれていたはずなのに、いつのまにか、鷹尾は目のまえに立っているだけだった。力づくで制されたと勘ちがいした湯村は、急に恥ずかしくなった。
「すみませんが……、もう少し、離れてもらえませんか……」
「なんでだよ」
「息が、できないから……」
「フルーツ牛乳、買ってこようか」
「……けっこうです。のみたいときは、じぶんで買いに行けます」
早まる鼓動で胸が苦しくなる湯村は、こんなときにかぎって、通行人をさがして視線が泳いだ。鷹尾とふたりきりの状況は心臓に悪い。教員らしき女性が通りかかったが、湯村の存在に目をとめることはなかった。
「それで?」と鷹尾が訊く。なんのことか、さっぱりわからない湯村は、こたえるかわりに顔を
「遅い」
云われてハッとなるが、唇を奪われた。望まないキスを拒めず、鷹尾と気息をあわせてしまう湯村は、投げやりな感情にとらわれた。長い口づけにおよぶ鷹尾は、「甘いな」とつぶやいた。
「な、なにが……」
「このまえはレモンだった。きょうは、リンゴの味がした」
湯村が舐めていたのど飴は、口腔で溶けてなくなっていたが、鷹尾の舌が深くはいりこんできて、そのなごりを味わった。
「どうして、こんなこと……、ぼくを困らせて愉しいですか……」
「あえて云えば、暇つぶし」
「そんな理由なら迷惑です。もう、かまわないでください!」
「ありえない……、忘れろ、忘れろ……」
正直な気持ちをもてあそばれた湯村は、鷹尾を殴りつけてやろうと思い、
「なんなんだよ、いったい……。ぼくが、ただの暇つぶしなんて、意味がわからない……。二度もキスしておいて、そんなの、ありえないじゃないか……」
キスの意味に途惑ってうろたえる湯村をよそに、ビニール傘をさして歩く鷹尾は、雨のなかにたたずむ少年を見つけた。五歳くらいの男の子は、水色のレインコートをはおっている。鷹尾が近づくと、ニコッと笑い、「春馬さんは、あのおにいちゃんと仲よしなの?」とたずねた。
「湯村のことか」
「うん。
「たったいま、盛大にフられたところだよ」
「なぐさめてあげよっか」
「たのむ」
「じゃあ、しゃがんでくれる?」
云われたとおり、鷹尾が前かがみになると、男の子は爪先立ちをして、小さな手で頭をなでなでした。
「春馬さん、あのね、透おにいちゃんには、ずっとまえから気になるひとがいるんだよ。だから、春馬さんは、フられてなんかいないよ」
鷹尾は「そうだったな」と苦笑すると、男の子と手をつなぎ、駅のほうへ歩いた。まもなく雨がやむと、少年はうれしそうに水たまりを飛びはねた。
「その顔、絶対になにかあっただろ」
校舎に背を向けて授業を欠席する鷹尾とちがい、教室の定位置でぼんやりしていると、水島に額を
「……痛いよ」
「手かげんしたぜ」
「……水島」
「なんだ?」
「なんでもない」
「云いかけてやめるなよ。気になるだろ」
水島の体質は、いかにもノーマルだ。男とキスなどしないだろう。湯村はため息を吐き、窓の外へ視線を向けた。青空に虹が見える。湯村は、いっそう滅入った。
✦つづく
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