第3話 春のさなか


 若い男性アナウンサーの声。おはようございます。みなさん、きょうの〔ことわざコーナー〕の時間ですよ~。それでは、発表します。本日ご紹介するのは、こちらです!


 嘘も方便


 さて、テレビのまえのみなさん。つい、うそをつくなんてこと、ありませんか~。……嘘つきは世渡り上手といった類語もありまして、目的は手段を正当化する場合も……、カチッ。



 湯村は、ポータブルテレビの電源をきって部屋をでた。


 毎朝きまったニュース番組を選局してパンをかじり、オレンジジュースをのんで、私服に着がえる。歯を磨き、長めの前髪や寝グセをととのえると、自転車に乗ってバス停を目ざす。最寄もより駅から利用できるスクールバスは有料だが、事前登録をして定期カードを購入すると、学生割引の対象となる。湯村は、少しでも節約するため、無料の駐輪場があるバス停まで自転車を走らせた。屋根つきの待合室がある。時刻は早朝につき、人影はない。黒い毛をした迷い猫が、ベンチのうえで丸くなっていた。


「おまえ、痩せているな。……こんど、食べものをもってこよう」


 湯村が声をかけると、大きなあくびをした。長いひげとまつげがゆれている。オスかメスかは不明だが、湯村がとなりにすわってものんびりしたようすは、人間にれているのかもしれない。


 大学生になった湯村は、講義がはじまる一時間以上まえに教室へいく。高校時代も満員電車を避けるため、始発に乗って登校した。冬は、まだ暗い景色のなかへ白い息を吐きながら自転車にまたがった。雪がふった朝は、とくに爽快だ。まだ誰の足跡もない舗道を、いちばんに歩くことができた。


 バスが到着したとき、ブブッと鳴る、携帯電話の振動音に気づいた。トートバッグの内ポケットから定期カードを取りだすついでに端末を手にすると、ガラ空きの席にすわって画面を確認した。水島からのメールだ。講義がはじまるまえにかならず顔をあわせる同期生だが、湯村の都合に関係なく、わざわざメールを送信してくる暇人ひまじんである。しかも、たいした内容ではない。


 今まで、同一人物にたいして、友好的なつきあいをせずにきた湯村は、どんな態度を示せば水島が離れていくのか、あるいは親交が深まるのか、頭を悩ませた。春の陽気で思考力がにぶっているうえ、湯村は、ある人物の存在を意識して、いつも視線が泳いだ。



「入れちがいで、卒業してしまったのかも……」



 学部も名前もわからない相手を、広い大学の敷地内で見つけることは、むずかしい。偶然すれちがう機会もおとずれないまま、見栄えのいい容姿をした男という記憶だけは、鮮明に在りつづけた。


 

 次は◯◯大学総合体育館まえ~

 次は◯◯大学総合体育館まえ~


 プシューッ、ガタンッ

 ピロリンッ、ブロローッ



 バスをおりた湯村は、前方の木立ちのかげに人影を発見した。藍鼠あいねず色のニットを着た男は、プラスチック製の筒型ホルダーを肩がけにしている。図面ケースを持ち歩くということは、建築科の学生なのだろう。スレンダーな躰つきに、鼻梁も品よくととのっている。湯村は、正面玄関へ向かう男の歩調にしたがって、あとからついて行く。追いこしてもよかったが、五メートルも歩かないうちに、男がふり向いた。


 一瞬目があってわきへらすと、その男は目前まで歩み寄ってきて、湯村の前髪に指をからめた。


「あ……」


 思わず赤面してたじろぐと、男は笑みを浮かべ一步退いた。長身である。見おろされて、動きを制される。息を吸って自己紹介の準備をしていると、無言で踵をかえされた。


 こんどは、名前をきかれもしない。


 置き去りにされた湯村は、しばらく茫然とたたずみ、気を取りなおしてから、教室へたどりついた。


 講義中の過ごし方は、自主性にまかせられているため、携帯電話をながめたり、雑誌を持ちこんでもかまわない。学期末試験と単位の修得に気をつけてさえいれば、進級は可能だった。ちなみに、留年りゅうねんとは、進級も卒業も見送られて同じ学年にとどまる状態で、さまざまな理由よって対象者は存在する。


 講義机は天板の裏に下棚があり、教科書や小物、手荷物を収納できた。長机タイプにつき、三脚ずつ椅子がそなわっている。湯村は、黒板やモニターから向かって左側の、前から三列目の窓ぎわへおちつく。そこが気に入った場所で、通路側の椅子には水島が腰をかける。まんなかの椅子は、互いのバッグを重ねて置くスペースとなった(湯村はトートバッグ、水島はリュックサック)。


 講義がはじまるぎりぎりの時間にやってくることが多い水島だが、めずらしく十五分まえに姿をあらわすと、あたりまえのように湯村の席へ近づいてきた。


「よう、おはよう!」


「おはよう……」


 水島は、いつものようにまんなかの椅子へリュック置くと、身を乗りだして耳打ちをした。



「なあ、知ってるか。建築科の鷹尾たかおってひと、きょうから大学に来てるらしいぜ。三年前のセンター試験の受験生のなかで、史上最高点をたたきだした男だ」


 

 望まない受験勉強の日々で疲れきっていた湯村は、試験で思うような正答をみちびけず、合格をあきらめていたが、運よく、すべりこめた。



「建築科の……鷹尾さん……」



 水島いわく、鷹尾にはサボりぐせがあって留年しているという。そういうたぐいうわさはなぜかひろまるもので、学部が異なる新入生のあいだでも、ヒソヒソとささやかれた。


 今朝、前髪にふれてきた学生は、もしかしたら鷹尾だったのではと考えこむ湯村は、どの授業も上の空となった。


 

 ザッ、ザザザッ

 モニターの周波数が乱れる音

 ザザザッ、ノイズ……、ザーッ

 


✦つづく

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