第8章:絶望の淵に響く、氷を溶かす声

 言葉を失い、配信画面の前で固まる私。時間は止まってくれない。コメント欄の悪意は加速し続け、私の心をズタズタに引き裂いていく。

 もう、無理だ。

 すべてを投げ出して、この場から消えてしまいたい。

 そう思った、その時だった。


 ブブブッ、ブブブッ。

 傍らに置いていたスマホが、静かに震えた。

 画面に表示された名前は、「高橋健人」。


 震える指で、私は通話ボタンを押した。

『――佐藤さん、落ち着いて。俺の言う通りにしてください』


 耳に飛び込んできた彼の声は、いつも会社で聞く、冷静沈着な声だった。でも、その奥に、確かな力強さが宿っている。

「た、かはし、さん……」

『大丈夫。俺がいます。まずは深呼吸して』


 言われるがままに、私はヒッと息を吸い込んだ。パニックで浅くなっていた呼吸が、少しだけ落ち着きを取り戻す。


『いいですか。今から言う通りに動いてください。まず、PCの電源ボタンを長押しして、強制的にシャットダウンします。回線トラブルのフリをします』

「で、電源……」

『そうです。すぐに』


 彼の指示は、迷いが一切なかった。私は操られる人形のように、震える手でPCの電源ボタンを押し続けた。やがて、ファンが静かになり、煌びやかだった配信画面が真っ暗になる。


『よし。次はスマホですぐに、ルナ・セレスの公式Twitterアカウントを開いてください』

 言われた通りにアプリを起動する。

『すぐに俺が「K」として、状況を説明するツイートをします。あなたはそれに「いいね」とリツイートをするだけでいい。何も書かなくていいです』


 彼の言葉とほぼ同時に、私のスマホに通知が届いた。「Kが新しいツイートをしました」。

 そこには、こう書かれていた。

【ルナ様の回線にトラブルがあったようです。現在、復旧を試みています。また、先ほどのコラボ相手の発言については、個人情報を特定しようとする悪質なものであり、看過できません。憶測での拡散はお控えいただくよう、皆様のご協力をお願いいたします】


 冷静で、的確で、ファンを扇動するでもなく、ただ事実だけを伝える、完璧な文章だった。私は言われた通り、そのツイートに「いいね」とリツイートをした。

 すると、あれだけ荒れていたネットの空気が、少しずつ鎮静化していくのが分かった。ファンのみんなが、Kさんのツイートを拡散し、「今は待とう」「ルナ様を信じよう」という声を上げてくれている。


 最悪の事態だけは、なんとか免れた。

 全部、高橋さんのおかげだ。


 電話の向こうで、彼が静かに息を吐くのが聞こえた。

 そして、今までとは違う、ほんの少しだけ感情が滲んだ声で、彼が言った。


『……怖かったですね』


 その一言で、張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。

「……っ、う……」

 涙が、堰を切ったように溢れ出してくる。


『すみません。俺が、ついていながら……』


 彼の声には、深い後悔と、私を心の底から気遣う、優しい響きがあった。

 私は、しゃくり上げながら、スマホを強く握りしめることしかできなかった。

 絶望の淵で、たった一人だと思っていた私の手を、力強く掴んでくれた人がいる。

 その事実だけが、暗闇の中で唯一の光のように思えた。

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