開き続ける箱

tomsugar

1.開き続ける箱

そのエレベーターは、彼の“最後の記憶”へと、繋がっていた。

誰にも気づかれず、誰にも覚えられないまま、消えていったひとつの存在。

記録からも、記憶からも抜け落ちた“彼”の声を、今でも扉の奥が拾い集めている。

──そして、今日またひとり、乗ってしまった。

気づかぬうちに、“彼の残した記憶”の中へ。


          *


斎藤由里は、片桐大学医学部の4年生。

ゼミの教授に推薦され、来年からは修士課程へ進むことが決まっている。


その夜――いや、もう日付が変わってずいぶん経っていた。

深夜2時過ぎ。研究棟のバイトでの記録をまとめ終え、


別棟の付属病院の最上階にある事務室に、それを届けた帰りだった。


15階。廊下は非常灯だけがついていてほの暗い。

誰もいない静けさに、なぜか足音だけがやけに響いて感じられた。


ボタンを押し、乗り込む。行き先階「1」を押し。「閉」ボタンを押した。




チーン――。


14階で止まった。

扉が開く。誰もいない。


“誰かが待ちきれず階段を使っただけ”


そう思い、由里はすぐさま「閉」ボタンを押す。




13階でも止まった。やはり誰もいない。


気のせいだったのだと思いたいのに、冷や汗だけが背を伝う。




12階、11階、10階……

エレベーターは、律儀にすべての階で止まり、そのたびにドアをゆっくりと開いた。




まるで、誰かがそこにいるかのように。


息が浅くなる。




ー1階通り越して、霊安室のある地下で開いたらどうしよう…

そんな思考が一度浮かぶと、消せなくなる。


けれど。




チーン。

1階のランプが点灯し、ドアは静かに開いた。


見慣れたロビー。誰の気配もない、ただの夜の病院。一度研究室に顔を出すつもりだったが、小走りに駆けだして、そのまま駐車場へ向かった。



車に乗り込み、深く息をついてハンドルを握る。


家に着いた頃、明かりはすべて落ちていた。家族はもう寝静まっている。


由里はそっと玄関を開けて中に入り、靴も脱がずに、そのまま玄関に腰を下ろした。




冷えた空気とともに、夜の出来事がじわじわと胸の奥に戻ってくる。


風呂に入りたい。汗が冷えて気持ち悪い。

けれど、一人で風呂に入る勇気が出ない…


ポケットから携帯を取り出し、小さな画面にじっと目を落とす。


キーを何度も押し、短い文を打ち込む。


《おきてる?》


しばらくして、画面が明滅する。


《おきてるよ ねるとこ》


由里は迷いなく続けて打った。


《こわくてねれん いっていい?》


《ええよ まってる》


それだけのやり取りで、不思議と少しだけ落ち着いた。




由里は玄関をそっと開け、自転車を押して表へ出た。


門を静かに閉めて、夜の道へ踏み出す。

遥の家までは、五分もかからない。




チャイムを鳴らす前に、もう玄関が開いた。

顔を出した遥が、あきれたように言う。


「顔、真っ青やん、由里。どないしたん?」


「めっちゃ怖かってん……聞いて……」




由里は、病院での出来事を震えるような声で語り始めた。

エレベーターの異常や、全階で扉が開いたことを話す。


話を聞き終えた遥が、由里の恐怖を煽るように言った。


「こわっ……しかも、夜中の二時って丑三つ時やん」


「もうやめてぇ……」

由里は懇願するような目で遥を見つめた。


「後、お風呂入りたいねんけど……」


「どうぞ、入っといで」


けれど、由里は首をすくめながら、ぽつりと呟く。


「……お願いします……一緒に入って……」


その声に、遥はあきれたように目を細め、けれど観念したように小さく頷いた。




風呂あがり、髪を乾かした由里は「狭い狭い」と遥に文句を言われつつ、遥のシングルベッドに潜り込む。




緊張から解き放たれた身体は、シーツのぬくもりに触れた途端にほどけていく。


気づけば、由里はもう、静かな寝息を立てていた。




<第2話へつづく>

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