第33話 解け行く黒い因果
和三盆墓地――。
白い砂糖を一面に敷き詰めたその地面は、淡くキラキラと輝き、
まるで墓地そのものが和菓子のように思えた。
ここが墓場とは思えない光景。
その静寂を破るように、巨大なタコの足がずるり……と砂糖を押しのけて進む。
砂のようにサラサラとした和三盆が吸盤に張り付き、足跡が白くえぐれて二重丸型に残っていく。
墓石の列が揺れる。
和三盆の上に倒れた砂糖菓子で出来た墓石がガシャンと軽く転がり、
グシャリと砕ける。
今はその音だけが、この異界の静けさを打ち砕いていく。
タコの巨大な頭――城のようにそびえるその頂に、黒い死神と呼ばれる者が立っていた。まったく動かない、微動だにしないとはこの事か。
風もないのに外套の裾だけが、闇の意志でハタハタと揺れているようだった。
やがて死神の声が、白い墓地全体に溶けるように染み渡る。
『誰かおるのか?
だったらおしるこの底から餅をひとつみつけるくらい嬉しいのだけれどのう…』
その声は、砂糖の粒ひとつひとつを震わせるように低く、冷たく振動した。
砂糖菓子の墓石の陰――。
クラフティとオランジェットが身を寄せ合って隠れている。
クラフティの体は異様に冷たかった。
その顔は和三盆の白さ以上に、血の気が失われている。
『……お兄ちゃん……もうダメかも…』
かすれた声でクラフティが囁く。
その呼び方には、もうほとんど力がない。
オランジェットはその肩を抱き寄せ、震えを抑えるように背を支えた。
『大丈夫だ、まだ大丈夫だ、諦めちゃだめだ』
だが、言葉に自分自身が追いついていない。
クラフティの呼吸は浅く、胸の奥で微かに揺れていた“命の炎”は、まるで今にも吹き消されようとしている
死神が古都から奪った帰還の炎を取り返さないかぎり現世には帰れない。
帰れないとクラフティは助からない。
だが――どうやってあのタコから炎を奪う?
答えはどこにもない。
焦るほどに、頭の中が真っ白になるり、奥歯がガタガタを音を鳴らし、
膝がガクガクと震えた、今まで感じたことのない恐怖。
その間にも、タコの一本の足が墓石の裏側へと迫ってきた。
巨大な吸盤が、和三盆を吸い上げるようにぴたりと貼り付き、みちっ……と音を立てて締めつけ、ボキリとへし折る。
クラフティがびくりと体を震わせる。
『……お兄ちゃん……寒いよ……』
『寒くないぞ、ホラあんなに太陽が出て暖かいよ』
必死で嘘をつくも、オランジェットの声は震えている。
その震えはクラフティにも伝わっている。
死神がまた呼びかける。
『そこにおるのは……生者か…炎を求める者か…』
和三盆の粒が空中にふわりと舞い、
まるで空気そのものが白い粉に変わっていくようだ。
遠くの墓標も白い霞と甘い香りに飲まれそうになる。
クラフティの呼吸がさらに弱まった。
その小さな胸の中の炎がふっと揺らぎ、光を失いかける。
『……お兄ちゃん……消えたく……ないよ……』
その言葉が、オランジェットの心に深く突き刺さる。
迷っている時間はない。
恐れている暇もない。
炎を奪い返さなければ――クラフティが死ぬ。
オランジェットは歯を食いしばり、震える足で立ち上がった。
白く輝く和三盆の砂地を踏みしめ、墓石の陰から飛び出す!
タコの足と死神の視線が、彼を捉える!
『……お願いです!帰還の炎をボクに下さい!』
声は震えていた。
だが、胸の奥に宿った覚悟は揺るがなかった。
もはや生き残るためではなかった。
クラフティを救うためでしかなかった。
和三盆墓地の白い地面が音もなく広がる闇の中、
オランジェットは死神とタコを真正面から見据えた。
決戦が始まる…いや、普通に考えたら一方的な敗北は目に見えている。
一瞬でタコに叩き潰されて終わるだろう。
オランジェットに策などない、ただただ妹を救いたいだけの
命を懸けた一発勝負の「
和三盆墓地が、地響きとともに波打ち、砂糖が激しく舞い上がる。
一本のタコの足が伸び、オランジェットをランプで照らしたその時、死神はクラフティの腕に抱かれたピンク色のクマのぬいぐるみを凝視したままピタリと止まり、震える声を漏らした。
『……あの子たちの欲しがっていたクマ……』
次の瞬間、死神は突如として取り乱し、顔を覆ってオイオイと泣き崩れた。
それと共鳴するように、巨大なタコが八本の足を激しく振り回し、墓地全体が揺れた。
舞い散る粉塵の中で八つの光が縦横無尽に乱れ飛ぶ。
砂糖菓子の塊が空気を裂いて飛び交い、白糖が嵐のように巻き上がる。
大地は悲鳴を上げるように震え、オランジェットとクラフティは、今まさに叩き潰されてもおかしくない距離にいた。
双子のキットとカットの店で買ったクマのぬいぐるみに救われた形となった。
『お兄ちゃん……私を置いて…逃げて…』
クラフティが震える声で囁いたその時――。
『和菓子好きだったもんね!』
どこか懐かしい、そして優しく響く声が砂糖の嵐を突き抜けた。
その声を聞いた途端、
タコはぴたりと動きを止め、一本の足を延ばして声のした方を灯す。
死神も泣きじゃくるのを止め、顔をゆっくりと声の方へ向けた。
砂糖がふわりと沈静し、視界が開けた。
そこに立っていたのは――
やっちゃんだった。
やっちゃんはほんの少し照れたように笑い、死神に向かって言った。
『覚えててくれたんだね……たこ焼きが大好きだった私のこと…
肉うどんを注文したら肉丼が来たくらい嬉しいわ。』
タコは震える足を一歩踏み出した。
それは“怪物”ではなく、母親が娘を思った形がそのまま実体化した存在だった。
やっちゃんの母親が、娘の好きな“たこ焼き”を思い、裏世界へ残した想いがタコとして形になったのか。
そして死神の頬を伝う涙が、白い砂糖の地面に落ちた。
歴史を変える異形の姿に変えられても、母親である事を忘れさせる宿命には
やっちゃんの抱える後悔の念を知っての事だろうか。
彼女は、死神の方へ歩み寄りながら話しかける。
『……ごめんね……あの日如月書店でもらった、あなたの本……読めなかった……向き合うことになるのが怖かった……だから……ここに置いてしまったの……』
やっちゃんは死神の姿をまっすぐに見つめた。
その本――母親が生まれてから死ぬまでの記憶の本。
それを読む勇気を持てなかったやっちゃんは、逃げるように本を置き去りにした。まるで母親を置き去りにするかのように。
その本が時間と因果をねじ曲げ、歴史そのものを変えてしまったのだった。
タコの足が死神を乗せ、そっとやっちゃんの方へ伸びた。
足から降りた死神は、震える指を伸ばす。
白い砂糖の地面は静まり返り、風も音も無くなった。
オランジェットとクラフティはただ立ち尽くし、その再会の瞬間を見守る。
静まり返った和三盆墓地の中央で、やっちゃんはゆっくりと死神へ歩み寄った。
白砂の上に落ちた涙は、まるで氷砂糖のように細かい結晶となって音もなく砕けていく。
『……お母さん』
その一言で、死神の肩が大きく揺れた。
『私は……あの火事であなたが何を思ったのかを…知ることになるのが怖くて……逃げたの。ごめんなさい……』
死神は首を横に振った。
『可哀想に…お前の事だからずっと後悔していたのだろうね…』
その声は、まるで生きていた頃のままの、柔らかい優しさだった。
背後で、巨大なタコが静かに身を縮めていた。
その目は、生きる者を叩き潰し、魂を喰らう死神のしもべとは思えない。
やっちゃんは足もとに伸びるタコの足へそっと手を置いた。
『あなたもいい迷惑よね、ありがとう』
タコは八本の足を小さく折り、さっきまで暴れていた存在ではなかった。
……その瞬間…。
和三盆墓地全体を覆うように、透明な波紋が広がった。
音もなく、しかし確かな力を持って空間を引き裂いた。
死神が呟く。
『因果が……戻っていく……』
裏世界にこびりついた“ねじれ”が、やっちゃんと母親の理解によって徐々に解け始めていた。2人の繋がった想いが墓地そのものの歴史を修復していく。
やっちゃんは二人を見て、静かに微笑んだ。
『オランジェット、クラフティ、やっと会えたね、私のせいでなんかごめん。』
その声に反応し、オランジェットはクラフティを抱えて前へ出た。
クラフティはピンク色のクマを抱きしめたまま、涙ぐんで、必死で声をあげる。
『やっちゃん……帰ろう…』
やっちゃんは少しだけ寂しげに、しかしどこか誇らしげに微笑む。
『私は戻らない。縛られたままでいる必要がなくなったから』
死神がそっと手を差し出した。
その手は、もう死神ではなく、小さく震える母親の手だった。
『……一緒に行くわ…今度こそ、あなたの言葉を読む。逃げない。
あなたの娘として』
やっちゃんはその手をしっかりと握り返し、タコに向き直る。
『あなたも一緒だよ。お母さんの想いの一部なんだから、
でも心配しないで、食べないから。』
タコは八本の足をゆっくり伸ばし、その巨体を二人のそばへ寄せた。
その時だった、和三盆墓地そのものがガタガタと震え、立っている事も出来ない程の揺れを引き起こした。歴史が修復される時の波動なのだろう、大気そのものが割れそうな勢いだった。大地が裂け、大きく開けた地の底に次々と墓石や草木、空気までもが飲み込まれて行く。
歩く事もままならないクラフティが時空の裂け目に流れ込む砂糖に足をすくわれた。
バタリと倒れ込んで、そのまま裂け目へと
『おに…い…ちゃん…』
『クラフティ!!!』
飛びついてクラフティの手を握るオランジェット。
『お兄ちゃん…炎を…炎を手に入れて……もう帰って…』
『だめだ!クラフティが死ぬのは夜明けだ!まだ早い!』
『だって…もう…明るいから……』
手の力を完全に抜いたクラフティは自ら死を選んだ。
『だめだクラフティ!!!!』
オランジェットの手からこぼれ落ちそうになるクラフティの手。
奥歯が折れそうな程食いしばってクラフティの手首をガッチリと掴み直す。
右手でクラフティが手放しそうなシャルロットの記憶の本を捉える。
ズルズルと裂け目へと吸い込まれる2人。
その瞬間、タコの足が一本、二人を絡めとり、岩の上にそっと置いた。
そして、岩の上にランプを1つ置いた。
古都の盗まれた炎だ。
その間にも二人が乗った岩は裂けめに引きずり込まれようとしていた。
ズルズルと動く感覚、吸い込まれる砂糖の嵐、方向感覚すら失せる。
『いそげ…いそげ…』
『おにぃ……』
オランジェットの目から一気に涙が溢れ出す。
『待って!まってよ!クラフティ!お願いだから!』
悔しくて、悲しくて止まらない涙が地面に口を開けた闇へと吸い込まれていった。
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