第29話 ごめんなさいは涙色
古びた木の扉の取っ手に手をかけると、温もりが伝わった。
まるで誰かの体温が、そこに残っているかのように。
扉を押すと、頭上の小さな鈴が“チリン……”と鳴った。
その音に、やっちゃんの足が止まる。
――この音。
もう二度と、現世では聞けないはずの音だった。
あの日、遠く離れた街のホテルの一室で、
不意に耳に届いたあのやっちゃんの店、フィナンシェの鈴の音。
理由もなく胸がざわめき、心臓が痛むように鳴った。
後になって知った――その瞬間、家が炎に包まれていたことを。
胸の奥がぎゅっと締めつけられ、喉が熱くなる。
気づけば涙が頬を伝っていた。
見上げると、店の奥には柔らかな光が満ちていた。
薄い靄のような明かりが、木の棚を包み込む。
そこには、手作りの懐中時計や、小瓶に詰められた砂時計の欠片、
月明かりを閉じ込めたようなランプ…
そして、ガラスの中で星屑のように揺れる小さなクラゲのような生物――。
どれもが、この世の時間とは別の世界に属しているような、
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
声が重なった。
音のする方を振り向いたやっちゃんの目に、二つの影が映る。
小さなカウンターの向こうに、白い髪にガスマスクをつけた二人の少女。
どちらも同じ髪型で、同じ背丈。
まるで鏡に映したような姿。
その瞬間、やっちゃんの膝が崩れ落ちた。
――まちがいない。
亡くした、あの子たち。
煙の向こうへと消えていった、小さな双子。
ガスマスクをつけたその姿は、まるで煙の記憶をそのまま
「お客様……大丈夫ですか?」
心配そうに、片方の少女――カットが駆け寄る。
もう一人のキットも、その後ろから小さく首を傾げた。
やっちゃんは声にならないまま、二人の顔を見上げた。
喉が塞がれて、言葉が出ない。
ただ、溢れ出す涙だけが彼女の思いを語っていた。
――謝りたかった。
あの日、仕事に出かけず、そばにいれば。
頼まれていた熊のぬいぐるみを、もう一つ買っていれば。
「また今度ね」と言って電話を切った、その“今度”が来ないまま――。
どれほどの後悔を抱えて生きてきただろう。
目の前の二人は、やっちゃんの涙の意味を知らない。
ただ、静かに寄り添うように立っていた。
店内に流れる鈴の音が、時間の境界線をやわらかく溶かしていく。
まるで、「ようやく来たね」と言われているようだった。
やっちゃんは袖で涙を拭った。
指先が震えていた。
泣いてはいけない――そう思うほどに、胸の奥が痛む。
目の前の双子は、優しく微笑んでいた。
どちらも、自分を知らないはずなのに。
それでも、その笑顔は“母”の心に焼き付いたまま。
マスクをしていても見える、あの笑顔だった。
「ゆっくり見ていってくださいね」
キットがそう言うと、カットが商品が並んだ棚の方を示した。
木の棚は年月を感じさせる深い色をしていて、
そこに並ぶ小さなランプたちが淡い光を放っている。
炎ではなく、光そのものが呼吸をしているように、やさしく揺れていた。
やっちゃんは唇を震わせながら尋ねた。
『帰還のランプはあるかしら』
「どうぞ――“帰還のランプ”です。」
わかっていたかのように、キットがそれを手渡した。
カットが静かに続ける。
「タダではございません……あなたの……」
『これでどうかしら』
やっちゃんがそっと目を閉じると、彼女の身体から光の粒が舞い上がった。
それは、春の雪のように静かにレジへ飛んでいき、チン、と音が鳴る。
「あなたの幼少期の記憶ですね。等価に値しますが、本当によろしいのですか?
あなたは今後、幼少期の事を何一つ思い出せなくなりますよ」
『ええ、幼い頃の記憶なんか、思い出す程暇じゃないわ』
「承知しました。ありがとうございます。」
『ねぇ……』
「はい?」「ほかに何か?」
『あなたたちには記憶が無いと思うけれど……
ほんとうにごめんなさぁいっっ!!!』
やっちゃんは、自分の膝に額が付くほどに腰を折り、二人に頭を下げた。
溢れる涙が床に落ち、逆さまに流れていく。
『あなだだちを……あなだだぢを……
ばぼれなぐで……ばぼってあげられなぐで……ぐすっ……
ごべんなさぁあああああああああああい!!!!』
「頭を上げてください。何のことかわかりませんけど、
そのお気持ちは……お察しするに余りあります。」
「さぞお辛かったことがあったのでしょう」
やっちゃんはその場に泣き崩れた。
嗚咽が、胸の奥に閉じ込めてきた年月をほどいていく。
「さ、何か事情があって来られたのでしょう」
「先をお急ぎでしょう」
「行って、さぁ…」
見事で美しい二人のハーモニーが響いた瞬間、
まばゆい光が店内を包み、少し強い風が吹き抜けた。
やっちゃんが顔を上げたとき――もうフィナンシェは消えていた。
残されたのは、静寂を保つ美しい森。
木々の間を渡る風が、やさしく髪を撫でる。
その奥から、かすかな声が聞こえた気がした。
「お母さん……ありがとう」
涙で滲む視界の中、
やっちゃんは胸に抱いた“帰還のランプ”を見つめた。
光は静かに脈打ちながら、
――彼女の心を、そっと照らしているように思えた。
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