9-1 最終回
◆
秋の陽が短くなった。
大学の講義を終え、まひると二人でスーパーに寄り、彼女のアパートのキッチンに立つ。そんな当たり前の日常が、ぼくの世界になってから、もう随分になる。
「あ、護さん、ダメです。ネギはもっと、こう……優しく、細かく」
「う……。これでも、人生で一番集中しているんだけど」
だし巻き卵を作っているぼくの手元を、後ろからまひるが覗き込む。
彼女の細い指が、ぼくの手に重なった。包丁を握る力と、位置を、正しい場所へ導いてくれる。
背中に柔らかな胸の感触と、温かい体温。そしてふわりと香る、陽だまりみたいな匂い。
子どもを宿し、産み、育んでから、香りが変わった。甘さの中に、どこか母性の温もりを帯びるようになった。
「……ふふ。不器用なんですから、護さんは」
「……うるさいな」
憎まれ口を叩きながらも、顔が緩んでしまうのを止められない。
ぼくらは、ここまでたどり着いた。
そのきっかけも、思えば数年前。
結衣の母親との一件の後、ぼくは自分の両親に全てを話した。
結衣の家族は、いつの間にか、街から姿を消した。
結衣も、今どこで何をしているのか、未だにわからない。
時折、心の隅がちくりと痛む夜もある。
「ほら、護さん。ぼうっとしてると、お手手怪我しますよ?」
まひるの声。
振り返ると、彼女は幸せそうに微笑んでいた。
「……視覚は、返してもらいましたから。今となっては、感謝する面もあるんです」
「え……?」
彼女は悪戯っぽく笑うと、それ以上は言わずに、僕の手から包丁を置かせた。
刻み終えたネギをボウルに入れて、手を洗う。
その後、彼女の少しだけ丸みを帯びてきたお腹を、そっと撫でた。
「……体調は大丈夫?」
「もう、そんなに心配してくれなくても大丈夫ですよ。……でも、嬉しいです」
「こっちのちびすけも、大人しくしてるね」
「はい。今日はとても静かです。きっと、お父さんの作るだし巻き卵を、楽しみにしているんですよ」
今、妊娠四ヶ月だ。
これで三人目。前回の出産から18ヶ月以上空けて、慎重に挑んでいるけれど、いつも不安だ。彼女の体は耐えられるのだろうか。
その彼女は、ぼくの手の上から、自分の手を重ねた。
愛おしそうにお腹を撫でる。
その横顔は、今まで見たどんな彼女よりも美しく、聖母のように輝いていた。
「……護さん? だし巻き卵、お願いします。フライパンはもう温まっていますよ?」
「ああ、そ、そっか。頑張る……」
熱せられた四角いフライパンに、キッチンペーパーで油を薄く塗る。溶き卵を流し込んだ。じゅわ、ぱちぱち、という軽やかな音と共に、出汁の優しい香りが立ち上った。
半熟になったところを、丁寧に、奥から手前へ。空いたスペースに、再び卵液を流し込む。
ぼくらの間にあった十年の空白を埋めるように。
そしてまた、キッチンペーパーで塗って、卵液を流し込む。丁寧に巻く。層が厚くなっていく。最後に、フライパンの縁を使って形を整えた。……あれ。
形は良いのだけれど、少し焦げた匂いがした。
「……お父さんのだし巻き卵は、絶品ですからね」
世界でいちばんの好物だ、なんて言わんばかりの笑顔で、まひるが見上げた。
「……ありがとう」
少し不格好な、黄金色の塊。顔を見合わせて笑い合った、その時だった。
ばたん! とリビングのドアが開き、小さな竜巻が駆け込んできた。
「ぱぱー! たまごやき!」
「パパ、だっこぉ!」
二人の子どもたちが、どーん! とぼくの足にぶつかってくる。長かったお昼寝から目覚めたらしい。もう少し、寝ててくれた方が助かるんだけどな。
「はいはい、二人とも、ご飯にしようね」
慌ただしくも愛おしい時間が始まる。子どもたちの相手と家事は、主にぼくの役目だ。
まひるは、優しく子どもたちの頭を撫でると、「また後で」と自分のデスクに向かった。
彼女はこれからが仕事の時間だ。在宅で、企業法務の書類のリーガルチェックや、財務諸表のレビュー。雇い先の国のサマータイムも終わって、この時間が始業時刻になる。
彼女の稼ぎで、ぼくらの生活は成り立っている。頭が下がる思いだ。
ぼくが働くと言っても、「護さんは、心からの夢を追ってください」とか「護さんには、大きく羽ばたいて欲しいんです」とか。彼女はいつもはぐらかしてしまう。
今は甘えさせてもらう。だけど、大学を卒業したら、必ず。うんと稼いで、今度はぼくが、きみを楽させてやるんだ。
「ぱぱー」
「パパー! ママは?」
「……はいはい。お仕事ママに、頑張れって応援しようね」
「がんばえー」
「がんばれーママ!!」
目下すべきことは、足に絡む台風たちの相手だ。
かつて、あれほどまでに凍り付いていたぼくの心は、この騒がしくも穏やかな日常の中で、ゆっくりと、しかし確実に溶かされていた。
◇
稼ぐには、魂を切り刻む作業をこなさないといけない。
きっと、いつの世だって、誰だって、同じだ。そうに決まってる。
けど今の仕事は、きっと、アイドル養成所時代よりも、遥かにマシなんだ。
あれは「配信スタジオ」と呼ばれる、窓のない部屋だった。
ずらりと並んだ、薄汚いパーティションで区切られただけの狭い個室。その一つ一つに、私と同じ境遇の少女たちが押し込められていた。
「はい、今日のノルマは五万ポイントだから。達成するまでここから出られないからね」
マネージャーはそう言い捨てると、背後で鉄の扉に鍵をかけた。
目の前のモニターには、無数の匿名のコメントが、川のように流れてきた。
『新人ちゃんキター!』
『名前呼んでくれたら1000pt投げる』
『もっと胸見せてよ』
『昨日泣いてた〇〇ちゃんの方がエロかったな』
仮想ギフトが投げられるたび、画面が派手に光った。そのポイントの一部が、私の「給料」になった。
周りのブースからは、少女たちの必死な声が聞こえた。あえぎ声。男たちのリクエストに応える、屈辱的な言葉。
最初は、ただ愛想笑いを浮かべていた。だがポイントが稼げなければ、マネージャーから内線で罵声が飛んできた。
それどころか、しばらくしたら部屋の鍵が開いた。煙草と汗の臭いと一緒に、全裸のマネージャーが。
あれは、デジタル売春宿。
チャットの要望に応じて役者は動く。
私たちの顔と、声と、感情のすべてが、不特定多数の男たちの慰みものとして、リアルタイムで消費されていく、見世物小屋。
それを考えれば今は随分マシ。
ある程度、自分の意思で相手を選べる。
私は女優になった。なれた。実力で。なろうと願っても、誰でも叶うわけじゃない職業に。
煙草の臭いが染みついた、遠征先のビジネスホテルのシングルルームで、一人、スマートフォンの画面を眺めていた。
それでも今日の撮影は、特にキツかった。
デビューしてから何年経った? 企画はどんどん過激になる。豚の餌やりで使うような飼い葉桶に顔を突っ込まされた。中に入れられた媚薬入りの餌を、四つん這いのまま舌で舐めさせられる、って設定。人として道を踏み外してる。どいつもこいつも。
けれど、SNSを開けば、そこには、熱狂的な信者からの、甘い言葉が溢れている。
『結衣ちゃん神。今日も三回わ抜いた』
『新作まだ? 結衣ちゃんがいないと、もう生きていけない』
『一生ついていきます!』
その一つ一つに、脳が、じんわりと痺れる。承認のドーパミンが、すり減った精神を、一時的に麻痺させてくれる。
これがなければ、もう、とっくに壊れていた。高校生の時から。
シャワーを浴びる。ゴシゴシと、肌が赤くなるまで身体を擦る。
けれど、何人もの男たちに触られた感触と、スタジオのあの独特の汚臭は、決して消えてはくれない。
冷蔵庫から缶チューハイを取り出す。ベッドサイドに常備してある、睡眠薬のシートを一枚、指で押し出した。アルコールで錠剤を流し込む。
味なんて、もうずっと前からわからない。
ぼんやりと鏡に映る自分を見る。
作り笑顔が張り付いた、知らない女。
私。私は誰? 白石結衣。そうだよ。生まれた時からずっと。でも最近、自分が結衣だっていう意識が希薄だ。
だって誰でもいいじゃん。若くて可愛くて脳が足りなくて騙しやすいバカな小娘なら。
そうだ。ファンからのコメントに、返信をしなくては。スマホを手に取り、慣れた手つきで文字を打つ。
『みんな、いつも応援ありがとう♡ みんながいるから、私は頑張れるよ!』
送信ボタンを押すと、すぐに、何十といういいねがついた。
ひび割れたスマホ越しの、その通知だけが、唯一の光だった。
(あとがき)
この度は、拙作、
10年一緒だった幼馴染が無惨にNTR快楽堕ちして壊れかけた僕に、学校一の天使が「10年間ずっと見てました」と笑ってくれた。
を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
この回をもちまして、完結とさせていただきます。
はじめは一万字の短編だったこの物語を、ここまで膨らませられたのは、皆様方の応援のおかげです。
改めて、深く感謝申し上げます。
※新作を告知いたします
開闢の使者 〜元社畜の無職、クソゲーと化したVRMMO世界を救ったら現実世界も救った。
https://kakuyomu.jp/works/7667601420174872426/episodes/7667601420174893187
ゲーム世界主軸の異世界ファンタジーです。
ラブコメや恋愛と毛色が違いますが、皆様に面白い体験をしていただくことを目標にして、本日公開しました。
読後に体験が残る物語を目指して書いてまいります。
ぜひ、お目通しいただけましたら幸いです。
今後ともよろしくお願いいたします。
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