第23話:新しい橋の始まり

あれから、季節は何度か巡った。

さくらの日々は、おばあちゃんの家で穏やかに流れていた。


怒鳴り声で目が覚めることのない朝。

庭で採れた野菜の味。


縁側で、ポテトの入った水槽を隣に置き、

おばあちゃんと、他愛ない話をする午後。


さくらの心は、ゆっくりと、しかし確実に癒されていた。


その日、さくらは、しずか先生のセラピールームを訪れていた。


色とりどりのクッションが置かれたソファは、

今ではさくらにとって、もう一つの「安全な場所」になっていた。


「さくらちゃん、ずいぶん落ち着いた顔つきになったわね」


しずか先生は、さくらの淹れてくれた

ハーブティーを飲みながら、優しく微笑んだ。


「うん。おばあちゃんのとこにいると、

 変な声もしないし、へんなふうに見えたりもしないよ」


さくらはそう言って、足元に置いた

ポテトの水槽を愛おしそうに見つめた。


騎士の役目を終えたポテトは、もう喋らない。

けれど、さくらにとって最高の友達であることに変わりはなかった。


さくらは、ぱっと顔を輝かせ、興奮したように続けた。


「それにね、先生!新しい学校、すっごく楽しいの!

 お友達がたくさんできたんだよ!」


「ユイちゃんに、アオイちゃん、ケンタくんに、ハルトくんでしょ、

 それからミサキちゃんも!みんなでね、毎日お昼休みに遊ぶの!

 この前はね…」


次から次へと言葉を紡ぐさくらの姿を、

しずか先生は目を細めて、愛おしそうに見つめていた。


その一つ一つの言葉が、

さくらの心がどれだけ回復したかを物語っていた。


「そう、よかったわね。たくさんお友達ができたのね。

 さくらちゃんが楽しそうで、先生も本当に嬉しいわ」


先生の優しい言葉に、さくらは「えへへ」と満足そうに笑った。


しずか先生は、カップを置くと、少し真剣な面持ちでさくらを見つめた。


「あのね、さくらちゃん。

 今日は、さくらちゃんに会わせたい人が来ているの」


その言葉に、さくらの肩が小さくこわばる。

先生は、さくらの心の揺れを感じ取ったように、そっと続けた。


「もちろん、無理しなくていいのよ。

 会いたくないのなら、我慢しないで。

 さくらちゃんの気持ちが、一番大切だから」


さくらは、ごくりと喉を鳴らした。


聞かなくても、誰なのかは分かっていた。


忘れることなんてできない、自分を一番苦しめた人。


「…お母さん?」

「ええ」


先生は静かに頷いた。


さくらの頭の中に、過去の記憶が嵐のように渦巻く。


セラピールームでの絶叫。


家に引きずり戻され、頬を打たれた痛み。


『あなたが変な子だから』という罵声。


(会いたくない…)


体が震えそうになる。


だが、その時、ふと押し入れで見つけた

古いアルバムの写真が脳裏をよぎった。


「きっと、この頃はまだ、悲しい魔法にかかってなかったんだよ」


という、ポテトの言葉が蘇る。


(ポテトなら、なんて言うかな…)


さくらは、水槽の中で静かに浮かぶ赤い友に、

心の中で問いかけた。


『さくらちゃんは一人じゃない。僕がいる』

『きっと、魔法は届くよ!』


たくさんの声が、

心の奥から聞こえてくる気がした。


それはもう、【悪い声】ではなく、

さくらを勇気づける、温かい声だった。


さくらは、顔を上げた。


瞳にはまだ、不安の色が浮かんでいたが、

その奥には、確かな光が宿っていた。


「…会う。会ってみる」


しずか先生は、さくらの成長を確かめるように、深く頷いた。


先生に促され、隣の部屋へ続くドアの前に立つ。


固く閉ざされたドアが、ゆっくりと開かれた。


そこに立っていたのは、さくらの記憶の中にいる

「お母さん」ではなかった。


腰まであった髪はさっぱりと短く切られ、

派手だった化粧も、甘く重かった香水の匂いもない。


落ち着いた色のブラウスに身を包んだその人は、

まるで、別人のように見えた。


ただ、さくらを真っ直ぐに見つめる

その瞳だけが、緊張と、深い後悔の色をたたえている。


「さくら…」


絞り出すような声だった。


母親は、さくらの前にゆっくりと膝をつき、

視線の高さを合わせた。


「ごめんなさい…。本当に、ごめんなさい」


母親は、ただそれだけを言って、

深く頭を下げた。


震える肩が、彼女が必死に嗚咽をこらえていることを示していた。


「お母さんは…病気だったの。自分の感情を、

 自分でどうすることもできなかった」


「だからって、あなたを傷つけていい理由にはならないわ。

 取り返しのつかないことをした。

 本当に、ごめんなさい…」


さくらは、何も言えずに立ち尽くしていた。


母親の腕に、長袖のブラウスの袖から、

うっすらと、古い傷跡が見えた気がした。


あの工作バサミでつけられた傷だろうか。


『きっと、悲しい魔法にかかってたんだよ』


ポテトの声が、心の中で響く。


目の前にいるこの人は、自分を傷つけた

恐ろしい母親であると同時に、悲しい魔法にかかって苦しんでいた、

一人の弱い人なのかもしれない。


さくらの口から、自然と問いかけの言葉が漏れた。


「…もう、怒鳴らない?」


母親は、はっと顔を上げた。


その目から、堪えていた涙が

とめどなく溢れ出す。


「うん、怒鳴らない。絶対に」

「もう…叩かない?」

「叩かないわ。もう二度と、あなたを傷つけたりしない。約束する」


母親は、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、

必死に、しかし力強く誓った。


それは、激情の後に繰り返された、気まぐれな「ごめんね」とは全く違う、

魂からの約束だった。


長い、長い沈黙が流れた。


その沈黙を破ったのは、さくらだった。


「…おかえりなさい、お母さん」


その言葉に、母親は顔を覆い、

子供のように声を上げて泣き崩れた。


さくらは、すぐにはその背中を

撫でてあげることはできなかった。


二人の間には、まだ大きくて深い川が流れている。


けれど、その川の向こう岸に、

小さな橋が架かったのを、さくらは確かに感じていた。


さくらは心の中で、最高の騎士に語りかける。


(ポテト、ありがとう。私、今度は自分の力で、魔法を使ってみるね)


窓から差し込む柔らかな光が、

静かに涙を流す母と、それを見つめる娘。


そして、二人の再生をそっと見守る、

小さな赤いフグを優しく包み込んでいた。

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ぽてとの声 たんすい @puffer1048

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