第22話:ポテトへのありがとう

退院の朝は、

驚くほど穏やかな光に満ちていた。


窓から吹き込む初夏の風が、優しく洗い流していく。


さくらは、しずか先生に手を引かれ、

一歩、また一歩と、自分の足で未来へと続く廊下を歩んでいた。


握られた先生の手のひらの温もりが、

もう一人ではないのだと、確かなぬくもりで伝えてくる。


おばあちゃんの家へ向かう車中、

さくらの心は、羽が生えたように軽かった。


窓の外を流れていく見慣れない景色の一つ一つが、

新しい世界の始まりを告げているようで、胸が躍る。


「先生、私ね、ポテトとお話できるんだよ!」


「ポテトがね、『ふわふわフグの魔法』とか、

『ありがとうの魔法』とか、いっぱいの魔法を教えてくれたの! 」


そして、少し声を潜めて、一番大切な秘密を打ち明けるように言った。


「あのね、線路にいた時、ポテトの声が聞こえなかったら、

 私、今ここにいなかったかもしれない」


「ポテトが『さくらちゃんは壊れてなんかいない!』

『僕がずっと信じるから!』って叫んでくれたの 」


「だからね、先生もポテトに会ったら、

 お話してみて!きっと、お返事してくれるから!」


しずか先生は、さくらの話を一度も遮ることなく、

うん、うんと優しく頷きながら聞いていた。


「そう。ポテトは、さくらちゃんにとって、

 本当に大切で、最高の騎士なんだね」


その声には、さくらの言葉を信じるとか、

信じないとか、そういう次元を超えた、

ただ深い受容と愛情が満ちていた。


やがて、車は、おばあちゃんの家の前に着いた。


玄関のドアが開き、心配そうに待っていたおばあちゃんが、

さくらの姿を見るなり駆け寄って、黙って抱きしめた。


「おかえり、さくら」

「ただいま、おばあちゃん」


その温かい腕の中から抜け出すと、

さくらは一目散に、家の中へと駆け込んだ。


目指す場所は、たった一つしかない。


縁側の、日当たりの良い場所に置かれた、

ポテトの大きなお城。


さくらは、ガラスの金魚鉢に駆け寄った。


「ポテト!ただいま!会いたかったよ!」


さくらが駆け寄ると、赤いじゃがいものようなフグが、

小さなヒレをぱたぱたと忙しなく揺らして近寄ってくる。


きょとんとした、まんまるな瞳が、

ガラス越しにじっとさくらを見上げていた。


「ポテト、私、もう大丈夫だよ。

 先生と、おばあちゃんが助けてくれたの。だから、心配しないでね」


さくらは、心を弾ませながら矢継ぎ早に話しかけた。


けれど、水音のほかには何も聞こえない。


ポテトはただ、気持ちよさそうに水の中を

くるりと回るだけだった。


「…ポテト?」


さくらは首を傾げた。

その声に応える、あの聞き慣れた元気な声は、もう聞こえてこない。


「ねぇ、おばあちゃんもポテトと話したよね!

 覚えているよね?」


振り返って尋ねるさくらに、おばあちゃんは

困ったように微笑んで、「どうだったかねぇ」と首を傾げる。


「しずか先生、本当だよ。ポテトは喋るんだよ。」


「さくらちゃんには、聞こえたんだよね。ポテトの声が」


「嘘じゃないんだよ。本当に、本当に、

 ポテトは喋ったんだから」


「私は、さくらちゃんの言うことを信じるよ。

 だって、魔法は本当だったでしょ」


「だから、さくらちゃんは今ここにいるんだよ。

 それが、なによりの証拠なんだから」


先生の言葉が、さくらの心に深く、静かに染み渡る。


さくらはもう一度、黙ってしまった親友を見つめた。


不思議と、悲しいとか、寂しいという気持ちは

湧いてこなかった。


心の中は、あの線路で感じた、

全身を包み込むような温かい感謝の気持ちで満たされていたから。


さくらは、ガラスの金魚鉢にそっと顔を近づけ、

静かに泳ぐポテトに語りかけた。


それは、誰かに言わされた魔法の言葉ではない。


さくらの心から、まっすぐに生まれた、本当の言葉だった。


「ポテト。あのとき、線路で聞こえたよ。

 ポテトの声…」


さくらは、にっこりと、今までで一番、優しい笑顔で微笑んだ。


「ちゃんと、聞こえたから」


そして、ポテトが最初に教えてくれた、一番大切な魔法の言葉を、

ありったけの心を込めて伝えた。


「ありがとう。ポテト」


もう、ポテトの声は聞こえない。

でも、大丈夫。


ポテトがくれた、たくさんの「魔法」と、

そして「愛してる」という言葉は、本物の強さとなって、

確かにさくらの心に宿っていた。


これからは、自分の声で「ありがとう」を伝えていける。

自分の足で、未来を歩いていける。


さくらの隣で、おばあちゃんとしずか先生が、

優しく微笑みながら、その光景を見守っていた。


騎士の役目を終えた赤いフグは、

縁側から差し込むキラキラとした光の中で、

誇らしげに、ヒレを揺らしたように見えた。

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