第20話:悪魔の囁き

さくらの中に響く【悍ましい声】は、

もはや、断片的な囁きではなかった。


絶え間なく鳴り響く悪意に満ちた雑音は、

母親の言葉さえもかき消すほどの悪意に満ちた雑音となって、

彼女の意識を、完全に飲み込んでいた。


母親が、何かを話しかけている。

しかし、その声は歪み、意味をなさない音の羅列となって声の嘲笑に溶けていく。


さくらは、意味の奔流にただ混乱し、

耳を塞いで、叫び返すことしかできなかった。


食事の席で、あの声が命じる。


《全部ひっくり返せ》


その命令に、まるで操り人形のように、

さくらは食器を床に叩きつけた。


陶器の割れる甲高い音。

目の前で母親の顔が歪む。


泣いているのか、

怒っているのか。


歪んだモザイク画のようになった母親の表情は、

もはや、読み取ることができなかった。


いつ殴られたのか、

あるいは、壁に打ち付けたのか。


記憶は曖昧だが、体のあちこちが、

鈍い痛みを訴えている。


着替えるために服を脱ぐと、鏡に映った自分の体は、

まだら模様の痣に覆われた見知らぬ生き物のようだった。


朦朧とする意識の中、

母親の手によって無理やり制服を着せられ、

半ば引きずられるようにして学校へと連れて行かれた。


久しぶりに見る校舎は、まるで異世界の建物のようだった。


知っているはずの場所なのに、

そこには、かつての穏やかな日常の欠片も残っていなかった。


上履きに履き替える。


そんな当たり前の動作すら、

今の彼女には、意味をなさなかった。


汚れた靴のまま、教室に足を踏み入れると、

すべての視線が、無数の針となって肌に突き刺さる。


囁き声が、嘲笑が、【悍ましい声】と混じり合って、

さくらの世界を完全に覆い尽くした。


チョークが黒板を叩く音も、教師の声も、

さくらの世界には届かない。


彼女の頭の中では、【悍ましい声】の独演会が

続いているだけだった。


《見ろ、みんなお前のことを見て嘲笑っているぞ。

 さあ、お前も笑い返してやれ!》


その声に操られるように、

さくらの口角がひきつりながら吊り上がる。


喉から漏れたのは、

乾ききった不気味な笑い声だった。


「は、はは……」


教室は一瞬静まり返り、

次の瞬間、抑えきれないひそひそ話の波がさっと引いては寄せた。


《なんだ、その程度の笑いか?実につまらない。

 ならば、もっと面白いものを見せてやろう》


【悍ましい声】が甲高く嘲笑った瞬間、

さくらの視界がぐにゃりと歪む。


目の前にいる教師や、クラスメイトたちの顔が、

次々と、風船のように破裂していく。


首から上を失った体だけが、

まるで意思のない巨像のようにそびえ立つ。


破裂した顔の残骸が肩や胸に、

べったりと張り付いている。


そんな、異様で、あまりに滑稽な光景が、

教室いっぱいに広がっていた。


(へんなの…)


恐怖はなかった。


むしろ、目の前の滑稽な光景に、

奇妙な高揚感が体の芯から湧き上がってくる。


衝動的に立ち上がった勢いで、

椅子が大きな音を立てて床に倒れた。


さくらは腹の底から、堰を切ったように笑い声を上げた。


「あはははははははははは!」


一度、始まった笑いは止められない。


狂ったような甲高い笑い声が、

静まり返った教室に木霊する。


《そうだ、もっと笑え!もっとだ!さあ、カバンから、はさみを出せ》


笑いながら、さくらは言われるがままに

カバンへ手を伸ばし、工作用のはさみを取り出した。


その刃に、乾いて黒ずんだ血のようなものが

こびりついていることに、彼女は気づかない。


《使え》と、声が命じる。


《どう使うかはお前次第だ。好きにしろ》


それは、他者を傷つけろという

悪魔の囁きだった。


さくらは、はさみを握りしめたまま、

ゆっくりと顔を上げる。


目の前には、恐怖に引きつった

クラスメイトたちの

顔、顔、顔。


しかし、心の奥底でか細い糸のように

残っていた何かが、彼女の腕を押しとどめた。


その刃が、他者へ向かうことはなかった。


代わりに、彼女は空いた手で自分の長い髪を無造作に掴むと、

ためらうことなく刃を当てた。


ざくり、と乾いた音がして、黒い髪の束がはらりと床に落ちる。


ざくり、ざくりと、

さくらは、無心に髪を切り続ける。


それは、外に向けられなかった攻撃性が内へと向かった、

悲痛な叫びそのものだった。


その異様な光景に、ようやく金縛りから解けた

教師が駆け寄ってくる。


何人もの大人たちの手によって

もみくちゃにされながら、さくらは、

保健室へと運ばれていった。


次に目を覚ました時、

目に映ったのは見慣れない白い天井だった。


保健室のベッドの上。


なぜ自分がここにいるのか、

記憶は抜け落ちていた。


保健室には誰の気配もなく、

耳鳴りのような静寂だけが満ちている。


何かに引かれるように、

さくらは、ベッドから起き上がった。


ふらつく足取りで部屋を抜け出すと、


廊下も、

昇降口も、


まるで世界から音が消え去ったかのように

静まり返っていた。


彼女は、靴を履くことも忘れ、

裸足のまま、校舎を抜け出す。


頭の中では、あの声だけが

優しく響いていた。


「しずか先生も、おばあちゃんも、ポテトも、もういない」


声が囁くたびに、心の拠り所が

一つ、また一つと消えていく。


もはや、どこにも帰る場所はなかった。


《そうだ》と、声が続ける。


《おまえには俺しかいない。もっと良いところへ案内してやろう》


その声に導かれるまま、ただ、導かれるままに歩き続けた。

どこへ向かっているのかもわからない。


考えることをやめた頭で、声の言う通りに、進むだけだった。


やがて、けたたましい電子音が鼓膜を打った。


カン、カン、カン、カン…。

目の前には、遮断機が下りた線路が横たわっている。


赤く点滅する警告灯が、さくらの虚ろな顔を

不気味に照らし出した。


《ほら、いくんだよ》と声が囁く。


《あの向こう側が、おまえのゴールだ。楽になれるぞ》


さくらは、まるでその言葉を待っていたかのように、

操り人形のようなぎこちない動きで、ゆっくりと、遮断機を押し上げた。


《そう、上手だ。そのまま進むんだ》


虚ろな唇から、安堵のため息のような言葉が漏れた。


「ああ、これで、楽になれるんだね」


声に促されるまま、さくらは冷たい砂利を踏みしめ、

線路の中央へ向かって、静かに一歩、足を踏み出した。


その、瞬間だった。


「さくらちゃん!!!!」


耳をつんざくような叫び声が、悪魔の声を切り裂いた。


「ポテト…?」


「行っちゃダメだ、さくらちゃん!

 そっちは、冒険のゴールじゃない!」


「ポテト…?ポテトなの?」


「さくらちゃん、このままじゃ駄目だよ。

 何もかも壊れちゃう」


ポテトの声は、どこまでも強く、

優しく、しかし、確かな響きを持っていた。


「私はもう、どうなってもいいの。

 もう誰も、私を助けてなんてくれないんだから…」


さくらは、諦めと疲弊に満ちた声で呟いた。


《そうだ、お前はもう壊れたんだ。誰も、お前を理解なんてしないさ》


背後から、冷たく嘲笑うような

死神の声が響く。


「さくらちゃんは壊れてなんかいない!

 嘘を言うな、この死神め!」


「さくらちゃんは、まだ心を取り戻せる!」


ポテトの声に、強い怒りが宿った。


《何もできなかったお前が何を言う。

 俺はさくらを、学校から助け出してやったんだぞ。

 お前には、それができたか?》


死神は、ポテトを挑発するように言い放つ。


「違う!助け出したんじゃない。

 お前はさくらちゃんを、深い闇に突き落としただけだ!」


「さくらちゃんの心を、壊そうとしているだけなんだ!」


ポテトの声が、感情を露わにする。


《なぁ、さくら。学校から救ってやったんだぞ。

 嬉しいだろ?自由になったんだぞ、お前は》


死神は、さくらの心に甘い毒を囁きかける。


「嬉しいよ。あんなところ、

 もう二度と行きたくないもん…」


さくらも、その言葉にすがるように答える。


「さくらちゃん、そんなやつの言うこと、

 聞いちゃ駄目だ!」


「僕を信じて!僕だけは、さくらちゃんを絶対に裏切らない!」


ポテトの声が、さくらの胸に直接、

語りかけるように響く。


「ポテト…あのとき、おばあちゃんの家で、お母さんが来たとき、

 どうして、何も言ってくれなかったの?」


「あのとき、黙ってたじゃない…。

 何もできなかったじゃない!」


さくらの言葉には、過去の裏切りに対する痛みと、

深い疑念が混じっていた。


「…ごめん。あのときは、僕も…

 さくらちゃんが連れて行かれて、どうすることもできなかった」


「でも…!魔法の言葉を信じて。さくらちゃん」


「僕が教えてあげた魔法は、さくらちゃんの心を

 守るためのものなんだ。だから…」


一瞬の沈黙の後、ポテトの声が震えた。


「僕は…僕はね、さくらちゃんが、大好きだ。

 どんなことがあっても、僕がずっと、さくらちゃんを信じるから…

 だから、お願い、壊れないで!!!」


「僕は、さくらちゃんを愛してる。」


その声には、深い愛情と、さくらを守ろうとする

必死なまでの願いが込められていた。


好きだなんて、愛してるなんて、

親にさえ言われたことがなかった。


ポテトの存在が、さくらの唯一の光となって迸る。


温かい。

こんなにも温かく感じるのは、

生まれて初めてのような気がした。


(ポテト…大好き)


今まで感じたことのない、全身を包み込むような

温かい感情が込み上げてくる。


冷たく凍り付いていた心の奥が、

ゆっくりと、しかし確かに溶け出していくのを感じた。


死神の冷たい囁きが、その温かさの前で

少しずつ遠ざかっていく。


「ポテト…」


さくらは震える声で、その名を呼んだ。


そして、初めて心からそう願った。


「私、ポテトを信じる。ポテトの言うこと、なんでも聞くから」


けたたましい警笛の音と、鉄の塊が風を巻き起こしながら

走り去っていく轟音が、さくらのすぐ側を通り過ぎていった。


「さくらちゃん、帰ろう」


ポテトの温かい声が、まるで子守唄のように

鼓膜を優しく揺らす。


その声を最後に、さくらの意識はぷつりと途切れ、

糸が切れた人形のように、線路脇の砂利の上に静かに崩れ落ちた。

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