第17話:凍てついた記憶

その日の午後。


しずか先生からの通告を受けた児童相談所の職員が、

さくらの安否確認と虐待の疑いについて事実確認をするために、アヤの家を訪れた。


玄関先で「さくらさんのことでお話を」と切り出した職員に対し、

アヤはすぐに表情をこわばらせた。


リビングに通された後、職員から虐待の可能性を慎重に指摘されると、

彼女は激しく動揺し、それを真っ向から否定した。


「あなたに、さくらの何がわかるっていうの!」


セラピールームで叫んだ時と、全く同じ言葉だった。

アヤは、悪いのは自分ではないと責任転嫁を始める。


「うちの子に、一体、何を吹き込んだんですか!

 あのセラピストのせいで、さくらはおかしくなったのよ!

 病院のように私を病人扱いするなんて、許さないわよ!」


と激昂した時のように、ヒステリックに声を荒らげる 。


娘の家出と、児童相談所の介入。

その二つの事実がアヤの中で、「自分こそが被害者である」

という、歪んだ確信へと変わっていく。


「あの子が変な子だから!普通じゃないから、

 私がこんな惨めな思いをしなくちゃいけないのよ!」


職員が何を言っても、もう彼女の耳には届かなかった。


心の中でさくらを罵り、公的機関からも疑いの目を向けられているという事実が、

彼女を、完全な孤立へと追い込んでいった。


凍てついた記憶。

職員が帰った後、静まり返ったリビングで、アヤはぽつりと呟いた。


「どうして、こうなっちゃったんだろう」


夫は、「もうお前には耐えられない」と、吐き捨てて出て行った。


さくらは、何も言わずに消えた。


「みんないなくなる。私の周りから、人が離れていく……」


膝を抱え、途方に暮れる。


その時、ふと脳裏に遠い日の記憶が蘇った。


全ての始まりだったのかもしれない、

あの日の教室の光景が――。


【フラッシュバック:10歳のアヤ】


「ねぇ、ユウタ君。その筆箱、汚いよ。交換したら?」


ユウタは、顔を真っ赤にして怒りを露わにした。


「なんだよ!うるせえな、関係ないだろ!」


「え……?なんで怒ってるの?

 私はただ、本当のことを言っただけなのに」


きょとんとするアヤに、

クラスの女子のリーダー格だったサキが呆れたように言った。


「アヤちゃん、そういうこと、言っちゃダメだよ。

 ユウタ君、怒ってるじゃない」


「でも、本当に汚いんだもん。

 本当のことなのに、なんでダメなの?」


自分の正しさを信じて疑わないアヤに、ユウタが叫んだ。


「うるせえ、このブス!」


その一言が、引き金だった。


男子たちが面白がって、


「ブス!ブス!」


と合唱し、女子たちも


「いつも言い方がキツいんだよね」

「人の気持ち、考えたことある?」


と、冷ややかな視線を向けた。


その日以来、アヤはクラスの中で「嫌な奴」として扱われた。


その夜、父親に助けを求めたが、

返ってきたのは絶望的な言葉だった。


「いいか、アヤ。世の中には、本当のことでも

 口に出してはいけないことがある。

 相手の立場や気持ちを考えられないお前が、悪いんだ」


「あんたまで、みんなの味方するの!?

 悪いのは私じゃない!バカ!」


感情的に叫ぶ娘に、父親は忌々しげな視線を向け、

吐き捨てるように言った。


「この、狐憑きが……。お前は昔から、どこか変だ」


父親に突き放されたその言葉が、アヤの心を完全に凍てつかせた。


(私は間違っていない。絶対、間違っていないんだから)


幼いアヤの心がどす黒い霧に包まれ、

境界線が見えなくなった瞬間だった。


【現在】


「もう、疲れたよ…」


過去の記憶から、意識が浮上する。

孤独と絶望が、冷たい霧のようにアヤの心を包み込んでいた。


「誰も私をいらないなら、本当に、いなくなってあげないと。

 さくらのためにも、その方が…」


彼女の視線が、床に落ちていた工作バサミに注がれる。

昨日、さくらのランドセルから散らばった一つだった。


アヤは、震える手でそれを拾い上げ、刃の片方を、自分の腕に突き立てた。


「さくら…ごめんね。こんなお母さんで。

 これでもう、怖がらせなくて済むね…」


涙で滲む視界の中、彼女はそれを強く握りしめた。


壁に刻まれた無数の古い傷の横に、

新しい傷を刻むために。


心の叫びを、唯一、自分自身が受け止められる、

その鋭い痛みでかき消すために。


部屋に、くぐもった呻き声と、

何かが肉を裂く鈍い音が、静かに響いた。

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