第三章:彼女のいた部屋

 その夜、私は眠れなかった。


 静真のあの悲しい微笑みが瞼の裏に焼き付いて離れない。

 彼の心の扉を開けたい。

 その奥にある本当の彼を知りたい。


 そのためならどんな手段を使ってもいい。


 私はいつもの私に戻っていた。いや戻ろうとしていた。


 私は酒を飲んだ。一人、自分の城であるタワーマンションのリビングで高級なシャンパンをボトル一本空けた。


 そして震える手でスマートフォンを掴むと静真の番号を呼び出した。


「……もしもし」


 電話の向こうで彼の少し眠そうな声がした。


「……しずまくん?……わたし、きょうこ」


 私はわざと舌の回らない甘えた声を出した。


「……今、一人なの。……寂しくて眠れないの。……会いに来てくれない?」


 それは私が今まで幾度となく男を落としてきた常套句だった。電話の向こうで静真が息を呑む気配がした。


 しばらくの沈黙。


 そして彼は静かにしかしはっきりと言った。


「……行けません」


「……え?」


「あなたは酔っている。それに俺はあなたの


 そのあまりにも冷静で、そして的確な拒絶の言葉。ガチャンと電話は切れた。


 私は呆然としていた。


 フラれた?

 この私が?


 プライドが粉々に砕け散る音がした。


 そして次の瞬間、どうしようもない怒りと自己嫌悪が濁流のように押し寄せてきた。


 私はそばにあった高価なシャンパングラスを壁に叩きつけた。


 ガシャン! という甲高い音。


 破片が飛び散り私の頬を微かに切り裂いた。鏡に映った自分の顔。そこには泣きじゃくる醜い一人の女がいた。


 メイクは涙で崩れ落ち、高価なドレスは酒で汚れている。


 魔性の女、煌月響子の完璧な仮面が剥がれ落ちた瞬間だった。


 翌日。


 私はひどい二日酔いと自己嫌悪の塊になってベッドから這い出した。


 もう彼の顔を見れない。

 取材を中止しよう。

 そう思ったその時だった。


 社長の佐々木さんから電話がかかってきた。


「煌月先生、大変です!静真が……。静真が倒れました!」


 私は何が何だかわからなかった。


 病院に駆けつけると静真は集中治療室のベッドの上で眠っていた。過労と精神的なストレスによる急性胃穿孔。緊急手術で一命は取り留めたという。


 待合室で佐々木さんが私に全てを話してくれた。


 


 彼女の名前は美咲さんといった。

 モデルを目指していた華やかで、そして女性だった。


「美咲ちゃんは本当に美しい子でした」


 佐々木さんは遠い目をして語った。


「でも先生もご存知の通り、芸能界は残酷な世界です。容姿だけでは通用しない。コネや枕営業の噂もある。清廉な彼女にはとても耐えられなかった」


 静真と美咲さんは高校時代からの恋人同士だった。彼女がモデルの道を歩み始めても静真は変わらず彼女を支え続けた。


「でもあいつは不器用だったんです。美咲ちゃんの苦しみに気づいていても、どう声をかけていいかわからなかった。彼女も弱音を吐けない性格でしたから」


 美咲さんは仕事のストレスから摂食障害を患うようになった。体重は激減し、精神的にも不安定になっていく。


「最後の頃は幻聴も聞こえるようになっていたそうです。『お前なんか価値がない』『消えてしまえ』という声が……」


 そして彼女は芸能界という虚飾の世界で心を病み、誰にも相談できないまま自ら命を絶った。第一発見者は静真本人だったのだという。


「……あいつは自分を責め続けてるんです。自分が彼女の本当の苦しみに気づいてやれなかったって。……だからあいつは心を閉ざしちまった。生きてる人間の心に踏み込むのが怖くなっちまったんです」


 だから彼は死者の声だけに耳を澄ますのか。


 そして佐々木さんは続けた。


「昨日、先生から電話があった後あいつ俺に言ったんです。『社長、俺もう一度だけあの部屋に行かなきゃいけない』って」


 あの部屋。

 それは美咲さんが亡くなった部屋のことだった。


 その部屋は事件の後ずっと空き家のまま残されていた。静真は昨夜私の孤独な声を聞いて、彼女の最後の孤独をもう一度自分の手で弔わなければならないと思ったのだ。


 そして一人あの部屋で夜通し清掃作業を続けていた。……そして倒れた。


 私の身勝手な行動が彼を追い詰めたのだ。


 私は自分の愚かさが許せなかった。


 私は佐々木さんに深々と頭を下げた。


「……その部屋の鍵を貸してください」


 私は一人でその部屋へと向かった。


 世田谷区の古いアパートの一室。外見は他の部屋と何も変わらない。しかしドアの向こうには重い空気が淀んでいるように感じられた。


 鍵を開けて中に入ると、そこは静真が一度清掃した後なのだろう、がらんとして物が何もなかった。


 だが部屋には、まだ彼女の悲しみが満ちているような気がした。


 私はその部屋で美咲さんの最後の日々を想像した。


 きっと彼女もここで一人、世界から取り残された孤独を抱えて過ごしていたのだろう。誰にも理解されない苦しみ、自分の価値を見出せない絶望、そして愛する人にさえ打ち明けられない心の闇。


 私は静真が昨夜この部屋で何を思いながら清掃をしていたのかを想像した。愛する人を救えなかった無力感。気づいてやれなかった後悔。そして今も続く自責の念。


 私は自分がいかに浅はかだったかを思い知った。


 彼の心の傷を理解しようともせず、ただゲームの駒として扱おうとしていた。彼の孤独に寄り添うのではなく、自分の寂しさを紛らわせるために利用しようとしていた。


 私は初めて本当の意味で他人の死と向き合った。そして私は、その部屋で一晩中、彼女のためにそして静真のために祈り続けた。


 朝日が窓から差し込んできた時。


 私は自分が書くべき本当の物語が何なのか、やっとわかった。


 私は今まで書いてきたセンセーショナルな孤独死のルポルタージュの原稿データを全て消去した。


 そしてノートPCを開くと新しいファイルにタイトルを打ち込んだ。


『彼女のいた部屋』


 それは誰かの死を面白おかしく消費する記事ではない。名もなき一人の女性が確かにそこで生きて愛し苦しんだ、その生の軌跡を静かに描き出す物語。そして、その悲しみを背負いながらも他の誰かの尊厳を守り続けようとする一人の誠実な男性の物語。


 その最後のページに私はこう綴った。


『……最後にこの取材で出会った一人の不器用な男性について書かなければならない。彼は私に教えてくれた。本当の価値とは誰にどう見られるかではない。自分が誰の何を心から大切に想えるかなのだと。そして本当の孤独とは一人でいることではない。誰かの痛みに気づけない心の闇のことなのだと』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る