第1節

低い声が、耳元で落ちた。

一瞬、羽久の震えが止まる。

呼吸の荒さは残ったまま、瞳だけが仁の顔を探すように揺れた。


「針はもう抜かれてる。見ろ」

仁は看護師に顎をしゃくり、点滴の器具を遠ざけさせた。

ベッドの脇で、銀色の針が無力に転がっているのを確認すると、羽久はわずかに息を吐いた。


「……あんた、誰?」

掠れた声が、やっと仁の耳に届く。


仁は笑わなかった。

ただ静かに、短く答えた。

「東雲だ。隣に来た」


羽久は、しばらくその名前を頭の中で転がすように黙っていた。

そして、再び目を閉じた。

それ以上、何も言わなかった。

夜の病棟は、昼間よりもずっと息がしやすい。

日中のざわめきも、看護師の巡回も、最小限になる。

羽久は、薄暗い常夜灯の下でスケッチブックを開いていた。

窓の外に広がる空。

柵の向こうに滲む雲。

白と灰色だけで埋め尽くされた世界を、鉛筆の線で写し取っていく。


その時、低いノック音がした。

答える前に、扉がわずかに開く。


「……入っていいか」


仁の声だった。

返事をしなくても、彼は勝手に入ってくるだろうと分かっていた。


案の定、スーツ姿の影がベッドの脇に立った。

仁は何も言わず、手元を覗き込む。

羽久の指が、一瞬だけ止まった。

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