第1節 落ち着く声
腕に冷たい感触が触れた瞬間、羽久の全身が跳ねた。
視界の端で、銀色の針が光る。
呼吸が一気に乱れ、胸の奥が焼けるように熱くなる。
「やめろ……! やめろ、やめろッ!」
手首は既に革のベルトでベッドに固定されていた。
足も同じだ。
動けない。
逃げられない。
血の気が引き、耳の奥で金属音が響き出す。
あの部屋の匂いが、ここに戻ってくる。
「やめろッ! さわんな!」
声は掠れ、涙と唾液で喉が痛む。
看護師の声が遠くで何かを言っているが、意味は届かない。
全ての音が、あの日の声に変わってしまう。
廊下の向こうから、足音が近づいてきた。
ゆっくりと、ためらいなく。
病室の前で止まる気配。
「何の騒ぎだ」
低く落ち着いた声が、空気を切り裂くように響いた。
看護師の一人が慌てて振り返る。
「すみません、新しく入られた方ですよね……この子、点滴や注射を極端に怖がってしまって」
「怖がってるってだけで、こんなに暴れるのか」
仁は、半開きのドア越しに羽久の姿を見た。
涙で濡れた黒い瞳が、必死に何かから逃れようともがいている。
だが、そのもがき方には覚えがあった。
ただの恐怖じゃない。
これは、生き残るための暴れ方だ。
「……理由は、それだけじゃねぇな」
仁の声に、看護師は言葉を失った。
病室の中で、羽久の叫びだけが響き続けていた。
仁は無言のまま、ドアを押し開けた。
看護師が慌てて腕を広げる。
「危ないです、患者さんが興奮状態で――」
「退いてろ」
低く、しかし有無を言わせぬ声だった。
看護師は一瞬ためらったが、その目に射抜かれ、わずかに身を引いた。
仁はゆっくりとベッドに近づく。
革のベルトで固定された羽久の手首、硬くこわばった指先。
喉を裂くような声は、既に息の切れた叫びに変わっていた。
その黒い瞳は焦点を失い、どこか遠い場所を見ている。
仁はその視界に、自分の姿を強引に割り込ませた。
大きな手で羽久の視界を塞ぎ、もう片方の手で顎を支える。
「ここは、あの場所じゃねぇ」
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