『もう一度』
Anonymous
プロローグ
消毒液の匂いが、息の奥まで染み込んでくる。
白い天井は、朝も夜も同じ色をしていた。
ここでは時間が流れていない。
流れているのは、点滴の滴る音と、扉の開閉音だけだ。
羽久は、ベッドの上で横になったまま、視線だけを窓に向ける。
景色と言えるものは、鉄格子の向こうに切り取られた空と、遠くにかすむ病院の別棟。
その空を、何度も紙に写し取った。
描いている間だけは、何も考えなくてすむ。
けれど、ふとした匂いや音が、無理やり過去を引きずり出す。
針の痛み。
足首に焼きつくあの痕。
金属の擦れる音が耳に届いた瞬間、身体は勝手に震え、息は浅くなる。
今日もまた、看護師の靴音が近づいてきた。
扉が開く。
反射的に体が強張る。
だが、入ってきたのは見慣れた白衣ではなかった。
スーツの上着を片腕にかけた男が、無言で廊下を歩いてくる。
背は高く、黒い短髪に鋭い目つき。
看護師が何かを説明しているが、彼はただ小さく頷くだけだった。
そして、羽久の病室の隣、空き部屋の前で足を止める。
一瞬、男と目が合った。
深い闇を湛えた瞳。
その中に、どこか自分と同じ色を見た気がした。
ドアが閉まる音が、やけに重く響いた。
夜は、昼よりも静かだ。
廊下の灯りは落とされ、足音ひとつ響かない。
聞こえるのは、空調の低い唸りと、遠くのナースステーションからのかすかな話し声。
ここでは、それがいつもの夜の音だった。
だが、この夜は違った。
隣室から、低く掠れた声が聞こえてきた。
何を言っているのかは分からない。
電話のようでもあり、独り言のようでもある。
間に時折、小さく笑う声が混じった。
その笑い方に、羽久はなぜか眠れなくなった。
布団を頭まで引き上げ、耳を塞ぐ。
だが、音は消えない。
むしろ心臓の鼓動と同じリズムで、隣の気配が迫ってくるように感じた。
眠れぬまま夜が明けた。
消毒液の匂いがまた鼻を刺す。
朝の巡回が始まり、扉が開く音が病棟に連続して響いた。
看護師が隣室のドアを開け、何かを短く告げる。
すぐに、仁の低い声が返ってきた。
その声は、聞き慣れた病棟の空気には似合わない、外の匂いをまとっていた。
その日、初めて羽久は「この男は、ここにいる人間じゃない」と感じた。
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