第2話:月の都、ルナフェル

 マンションの外廊下を歩くと、手すりの向こうに街の夕焼けが広がっていた。


 低層階のビルの隙間を縫うように陽が傾き、雲の縁がゆっくりと朱から藍へと変わっていく。


 その光景を目に留めて、玄関へ向かった。


 家の扉を開けると、醤油と生姜の香ばしい匂いが鼻先に届く。

 食卓には揚げたての唐揚げとポテトサラダが並び、テレビからは無機質なニュースキャスターの声が流れている。


 父と向かい合い、箸を動かす。

 互いに今日のことには触れず、ただ皿の中のものを口に運び、食べ終わった皿を流しに重ねる。


 セリフのない舞台みたいに、時間だけが過ぎていく。


 風呂に入っているときも、ベッドに横になっても、放課後に見た雑誌の表紙が頭から離れない。


 銀と青の色彩、そこに書かれた『Lunaphelle Online』という文字。


 なぜかずっと気になっていた。


 体を起こし、廊下を抜けてリビングへ向かう。

 父はソファに深く座り、ぼんやりとテレビを見ていた。

 視線の先、部屋の隅にノートパソコンが置かれている。


「……お父さん、パソコン、借りていい?」


 父が少し驚いて振り返る。


「どうした、珍しいな。宿題か?」


「……ううん。ちょっと、調べもの」


「パスワードは1988な。終わったらちゃんと切っとけよ」


 短い言葉を交わしたあと、ノートパソコンの蓋を開けた。


 キーボードにはかすかな埃が積もっており、指を置いたまま数秒だけ動きを止めた。


 深呼吸をひとつ。


 検索窓に、あの名前を打ち込んだ。


 画面には湖面に映る満月のイラストが広がった。


『月の都ルナフェルへ、ようこそ』


 その下に並ぶ文字。


『月に選ばれし漂流者』


『夜明けまで続く、もうひとつの世界』


 さらに視線を下へ送ると、〈職業〉という項目があった。

 ピアニスト、魔法使い、弓使い、月読士。


 色とりどりのアバターの横に、控えめに表示された文字があった。


『誰かと夜明けまで語り合う場所』


 同時に、スピーカーからピアノとバイオリンの澄んだ旋律が流れ出した。


 夕食の匂いも、テレビの音も遠のいて、画面の向こうにだけ夜の静けさがあった。


 マウスを動かし、アカウント作成の文字列をためらいがちにクリックした。

 名前入力欄のカーソルが点滅を繰り返す。


 思いつく名前はどれもしっくりこず、最後に残ったのは自分の名前に記号を添えた無機質な並び、xHarukax。


 今まで自分の意思で何かを決めたことがなかった自分は、こんな簡単な名前すら決められずにいる。

 それが妙におかしくて、少し笑えた。


 ログイン画面が月光に満たされ、作りたてのアバターが湖畔に立つ。

 夜風が木々を揺らし、遠くの街灯がまたたいている。


 画面の端には、誰かの言葉が次々と流れる。


《おつルナ》

《はじめましてー》

《誰かクエ行きませんか?》


 それらは遠い星のように現れては消え、声は交わらないまま、自分は歩き続けた。


 パソコンを閉じたあとも、ピアノとバイオリンの音が聞こえている気がした。

 布団に入っても、ゲームの世界のことばかり考えていた。


 なんだか心地よくて、そのまま眠りに落ちていった。

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