君の恋人は、そこにはいない
水越ゆき
第1話:名を呼ばれた日
放課後の音楽室は西日に満たされ、琥珀色の日差しが、黒いピアノの脚を一本だけ照らしている。
文化祭が迫るなか、合唱の伴奏という大役を任された遥に、クラスメイトたちは期待を寄せていた。
その期待とは裏腹に、譜面台に置かれた『Believe』の楽譜は、誰かに聴かせるためのものではなかった。
椅子に腰を下ろし、鍵盤の上に指を置く。
一音、また一音と、自分のために音を奏でる。
楽譜に書かれた『信じてる』という歌詞が目に入る。
信じるという言葉。
自分が演じている『優等生の遥』という虚像を、みんなは信じているだけなのか。
またひとりになってしまうのが怖くて、本当の自分を隠したまま、茜色に音が包まれては消えていく。
ひとつ、またひとつと。
ひとりだけの世界を破ったのは、廊下から聞こえる声だった。
「てかさ、自分の歌がどんだけ下手か、自覚あんの?」
重なり合った少女たちの声が、ドアのガラスをびりびりと震わせていた。
鍵盤に触れていた指が動きを止め、弾きかけたメロディが途切れた。
代わりに、全身を巡る血の音だけが聞こえてくる。
助けるべきか、関わらないべきか。
頭では面倒ごとに巻き込まれたくないと思う一方で、体は別の答えを知っていた。
みんなが期待する『優しい遥』なら、きっと。
思考が追いつく前に、足が床を蹴っていた。
音を漏らさぬよう椅子から身を起こし、忍び足で声のする方へと向かう。
ガラス越しに三人の姿がはっきりと見えた。
二人がひとりを壁際に追い詰め、辛辣な言葉を浴びせている。
責められているのは、長い前髪に隠れた小さな背中。
固く握られた袖口が小刻みに震えていた。
ひとりがその肩を突く。
細い体が支えを失い、廊下に崩れ落ちた。
肩から滑り落ちた鞄が口を開き、中身がリノリウムの床に散らばる。
ノート、消しゴム。
そして、一冊だけ、場違いなほど鮮やかな色彩を放つ雑誌。
もう、ためらう理由はなかった。
ひやりとした金属の感触を指先で確かめ、ドアノブを回す。
「……何してるの」
自分でもびっくりするくらい、静かな声が出た。
二人の視線が一度にこちらを向き、その敵意に思わず息が詰まる。
ぴたりと、すべての動きが止まった。
それぞれが居心地の悪そうな表情で視線をさまよわせ、足早に去っていく。
あとに残されたのは、静寂に包まれた廊下だった。
その場にしゃがみ込み、散らばった持ち物をひとつずつ拾い上げる。
くたびれたノート、角の丸いペンケース。
そして、一冊の雑誌。
表紙には、極彩色のキャラクターイラストと『Lunaphelle Online』のロゴが描かれていた。
なぜ彼女はこんなものを学校に持ってきているのだろう。
なぜ自分はこの雑誌にこれほど惹かれるのだろう。
その違和感を振り払うように、持ち主へと向き直った。
「これ」
うつむいたまま、彼女は差し出された雑誌を無言で受け取った。
長い前髪がカーテンのように表情を隠していて、何も読み取れない。
「……どうも」
床に視線を落としたまま、ほとんど唇を動かさずに発せられたか細い声。
そんな彼女の横顔に、ふと見覚えがある。
「同じクラスの……」
そう言いかけたところで、彼女の肩がびくりと動いた。
「……篠原。……まあ、覚えてないと思うけど」
彼女は力なく笑った。
咄嗟に返す言葉を探した。
「……あ、ごめん。篠原さん、だったよね。顔と名前を覚えるのが苦手でさ」
篠原と名乗った少女は、軽く会釈した。
散らばった持ち物をかき集め、鞄を胸に抱えたまま、その場を離れた。
ひとり残された廊下で、しばらく動けなかった。
指先に残る雑誌のざらついた感触だけが妙にリアルで、さっきまで自分がピアノを弾いていたことさえ、遠い記憶のように感じられた。
あの放課後の選択を、過ちだったとは思わない。
ただ、もし。
もし、あのとき。
あの本を拾い上げていなければ。
きっと今も、違う未来を夢見ていた。
彼女が僕という楽器を見つけていたことを知らずに。
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