第2話 山の氷雨
狼の遠吠えが聞こえる。
風が、夜の木々を揺らす。
夜空の星の輝きが綺麗だ。
涙は、もう乾いた。このまま木の上に隠れていてもどうもできないと観念した。
母さんは、『お逃げ』と言った。
「逃げなきゃ。」
声に出して言ってみて、やっと気持ちが落ち着いた。
暗闇の中で、周りを見回して見た。
高い木の上から見渡す周囲の景色は、いつもの見慣れた集落とは別の世界のようだった。
「いつも、行商の人達は、向こうの方角からやって来る。」
村の中央を貫く通りの周囲には、まだ炎の上がる集落が見える。その先に続く道を見たが、その炎を越えてまでその方向に進む気になれなかった。
森に入ると、狼や野獣と遭遇する危険がある。ついさっき、狼に尻をかじられた恐怖が思い出されて、森を進む気にもなれなかった。
村の集落の、夕日が沈む方向に続く、細い山道を見つめた。
そこには、今の季節なら、冬の前の山菜や野イチゴや草の実が実る、小高い丘がある。その先は、急峻な山が聳える岩山がある。
夜の闇の中でさえ白い岩肌を晒して立ちはだかる山岳街道に、その先は繋がっている。”子供が絶対に近付いてはいけない”と言い含められる場所だ。
「あっちに行ってみよう。」
『もう、危ないって、心配する母さんはいないから。』
そう思ったら、また涙が湧いてきて、袖で目を拭った。
朝日が、空の雲を染める。目指す岩山をも朱く染めていく。
周囲の明るさの中に、白い岩肌の各所を輝かせながら様々に色を変えていく。
「うわ~。きれいだ……。」
目指す方向を見つめながら、朝日の中の美しい壮大な景色の流れを、観ていた。
朝焼けの景色の移り変わりをただ眺めていたら、猛烈に空腹を感じた。
恐る恐る木を下り、周囲の音に耳をそばだてながら地面に降りた。
そこからは、丘まで走った。
小高い丘の中を通る道は通らず、あえて外れた道なき道を、足音を忍ばせながら歩く。
見知った道のあちこちに、もう口をきけない人の姿があった。
よく遊んでいた隣の子も、いつも蒸しパンを分けてくれた近所のおばさんも、変な手足の曲げ方をして、動かない姿で、そこに居た。
そんな姿を、見たくなかったから、見ないようにして、ひたすら歩く。
丘を登り切り、下りに差し掛かった所で、野イチゴが生る場所を目指した。秘密の場所で、今頃は沢山生っているはずだ。
大きな岩の向こう側の、その秘密の場所に行く為に、岩を少しよじ登る。
そこには、先客が居た。
突然、顔を出した僕に驚いて、目を見開いて、こちらを見た。
「多羅(タラ)。」
僕から、声を掛けた。
「波差(ハザ)!!」
彼は、立ち上がって、岩から降りた僕に抱きついた。僕も、抱きついた。
「よく助かったな。弟は??」
「母さんが、僕だけ逃がしてくれたんだ。」
「そうか。僕も、天井裏に、母さんが押し上げてくれて……。」
それ以上は、お互い何も言えなかった。
ただ、しっかりと抱き合った。
野イチゴは、2人の少年の腹を満たすには十分ではなかったが、その甘酸っぱさは、何度も吐き気を堪えた子供の口に、爽やかな後味で悲しみを和らげた。
本来の街道から少し外れながら、さりとて道を外れないように注意しながら、2人は歩いた。
途中、道に生えた草の茎の柔らかい部分や、草の実を拾い食いしながら、少しでも腹を満たそうと、ひたすら食った。そして歩いた。
足元に生える草が、急に途切れた。
向かう先は、ザラザラとして尖った砂や小石が続いている。その更に先に聳える岩山は、”こちらに向かう者は生かさない”とでも言うかのように恐ろし気だった。
ここまでは、裸足で来たが、この先は裸足の足では怪我をしそうだ。
仕方なく、波差は、自分が履いている服の下履きの裾を、腰の帯に隠し持っていた小刀で切り取った。
「何をしているんだ?」
多羅がいぶかし気に聞いて来た。
「足に巻くんだ。怪我をしないように。お前も、足を守った方がいい。」
そう言って、小刀を多羅に渡した。
多羅も、波差に習って、下履きの裾を切り取った。
波差は、手近にある枯れた草を下履きの切れ端に包み込んで、その中に足を入れた。その上から、服の帯を細く裂いた紐でぐるぐると巻き付けた。
即席の沓の出来上がりだ。多羅も、その様子を真似て沓を作った。
喉が渇いていた。
尖った小石と岩ばかりの山道で、草の1本も生えてはいない。
お天道様は真上で、ぎらぎらと照りつけてくる。
岩山の中腹まで登って来ていたように思ったが、超える先は、まだまだ遠かった。
波差は、後ろを歩く多羅を振り返った。多羅の顔も真っ赤に上気していて、暑そうだった。
即席に作った沓の紐は、何度も切れた。結び治しては巻き付けを繰り返しながら、2人はひたすら岩山を登る。
波差は、多羅の後ろの景色を見ないようにして来たが、岩山の山頂近くに到達してから、意を決して、振り返って、見た。
遠くまで見渡せる遠い場所から、生まれて初めて村を眺めた。
燻る煙を登らせながら、集落の痕が、そこにはあった。
耕して来た畑は、荒らされ、収穫を待っていた作物達は、無残に焼き払われていた。ちょうど、茶色に枯れてきていた粟や稗やキビは、よく燃えたことだろう。
「何で、食料を焼いたんだろう……。」
「え??」
「これまでの夜盗は、食料を渡せば、引き上げて行ったろう。」
波差は、疑問を言葉にしていた。
「歯向かう男を殺すことも、娘を攫う事もあったけど、皆殺しにして食料まで焼く事はなかったのに。」
「……そうだな。……何でだろう……。」
多羅も、その疑問に対して、答えは思い浮かばない。
黙って、2人は、かつて住んでいた自分の村を見つめた。
その場に立ち竦んでいても、誰も助けてはくれない。
擦りむいた傷はヒリヒリ痛むし、足の裏のあちこちからは血が出ているし。
お腹は空いたし。
何より、喉の渇きが耐えがたかった。
「行こう。今夜休む場所も探さないと。」
波差は、そう多羅を促すと、再び先を歩き始めた。
多羅は、何も言わず、黙って着いて来た。
風に冷たさが含み始めると、あっという間に厚い雲が近付いて来た。
「雨だ!!飲めるぞ!」
後ろから多羅が嬉しそうに叫んだ。波差も嬉しかったが、それよりもこの吹き付ける冷たい風に不安を覚えた。
「雨が当たらない場所を探そう!急げ!!」
「なんで?!飲む方が先だろ!!」
「いいから、早く探せよ!!」
多羅の盛大な不満の声は、後回しにして、波差は足の傷の痛みをこらえて、先を急いだ。
大きい岩を回り込んだ場所に、岩の裂け目があった。風の向きに背を向ける形の入口にホッとした。子供2人なら入れそうだった。
波差はその中に四つん這いで入った。背中を曲げれば、座れる。それを確かめてから、また外へ這って出た。
手早く服を脱いで、丸めて奥に放り込んだ。
すっぽんぽんになって、元来た道を戻る途中で、大粒の雨が降り始めた。
「多羅!!早く服を脱げ!!濡らすな!!」
「はああ??お前、なにやってるんだよ!!嫌だよ。裸になるなんて。」
「寒くなるぞ。濡れたら乾かないぞ。」
「嫌だってば!濡れたっていいよ。すぐに乾くさ。」
多羅はもう、波差の言う事を聞く気はないらしい。大きく口を開けて、雨粒を飲むのに夢中になっている。
波差は諦めた。そして、天から降る水を、心行くまで飲んで、体を洗った。
煙突の煤が付いた体は、見る見る綺麗に洗われていった。
雨脚は段々と強くなり、周囲に幾つもの雨水の流れ道を作っていった。
ゴロゴロと雷が鳴り始めて、波差は慌てて、服を置いた場所に戻ると、服に隠していた小刀を引っ張り出して、少し離れた岩の目印を定めて、そこへ小刀を投げた。
岩の裂け目の周囲は幾つもの流れが縦横無尽に走っている。雨は止みそうにない。
「波差~!!」
多羅が呼ぶ声がした。
「ここだ!岩の裏に居る。回って来ーい!」
そう答えると、少しして多羅が濡れそぼって現れた。歯をガチガチいわせている。
「寒い……。」
「早く服を脱げ。それから、ここに座れよ。」
多羅はうんうんと頷きながら、濡れて肌に張り付いた服を、苦労しながら脱いだ。
波差はその服を絞るのを手伝ってやった。
2人は並んで座った。岩の隙間の狭い空間に、肌と肌を触れ合わせて座った。
どちらも全裸で、尻の下にある尖った小石が痛い。
波差の肌に触れた多羅の肌は、とても冷たかった。
「ああ。波差の肌、暖ったけ~。」
多羅は、少しでも温まろうと、波差にしがみ付いてくる。その体を受け止めながら、波差は奥から自分の服を引っ張り寄せた。
「だから服濡らすなって言っただろう。山の雨は寒さを呼ぶって、父さん達が言ってただろ。」
「そうだっけ?」
「人の話は、ちゃんと聞け。これから。」
「……わかった。」
波差は、煤で汚れた自分の服を、多羅の肩に掛けてやった。自分は尻が破れた下履きを、首から背中に掛けて、しっかりと2人で抱き合って、お互いが温もりあえるように、体を密着させた。
雨脚は、弱まる事のないまま冷たい風を吹き荒れさせながら、夜の帳を降ろしていった。
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