【炎鎖の輪舞】-剣戟の森-

なりちかてる

黒き夜(Nigra Nokto)

第Ⅰ話 エッセアルダの大樹

『だめ……だめ!』

『行っちゃ、だめだったら……引き返して!』

『ねぇ、どうして……言うことを聞いて!』

『熱い……あぁ、こんなことを……』

『苦しい……苦しい……』


 森の妖精たちが、騒いでいる。

 姿は見えないが、声は聞こえてくる。

 感情も、伝わってきていた。


 妖精たちは、普段なら、ほぼ、害など与えてこない。

 平和を愛する種族で、悪戯好きとしても知られているが、あたしも彼女たちと触れあい、戯れることもあった。

 その彼女たちが、混乱し、口々に騒ぎたてている。


 怒りや悲しみ、虚脱感、恨み……。

 気ままに、居眠りをしたり、仲間たちとお喋りをしたり、追いかけっこなどをしている妖精たちが、そんな感情を抱くことなど、ほぼ、なかったはずだ。

 森のなかを駆けながら、様々な感情をぶつけられ、あたしは考えをまとめることもできないまま、とにかく、先へと急ぐしかなかった。


 ——どうか……間に合って……。

 祈りながら、あたしは飛ぶようにして、木々の間を抜けていく。

 茂みを突っ切り、突き出した枝を避け、草むらに踏み込んで、前へ、前へと急ぐ。


 木々の間から、見上げる空は、紅色に染まっている。

 吹き抜ける風も、冷たくなってきている。

 黄昏時——いずれ、すぐ足元から暗がりが忍びより、何も見えなくなってしまうだろう。


 あたしの実力なら、森の危険な獣を退けることには、自信がある。

 とは言え、夜の森が危険なのは、変わりがない。

 段差や急傾斜など、滑落して怪我をするかもしれない。

 こんな場合でなければ、砦へと引き返していただろう。


『来ちゃ……だめ……』

『あぁ……エルカさまを……助けて!』

『リースヴェルト……許さない!』


 妖精たちの声がだんだんと、大きくなってきている。

 もうすぐだ——もうすぐ……。

 エーテル・リンケージで確認しなくても、エルカに近づいていることはわかる。


 この場所は、はじまりの森と呼ばれている。

 エレド王国のなかでも、聖域とされており、特別な者でなければ、脚を踏み入れることも許されない。

 ここから、聖女が現われ、エレドの国作りがはじまった、とされている。

 特に、森の中心にある樫の大木は聖樹で、聖力の拠り所となっているようだ。


 歴史のこととかは、あたしにはまったく、わからない。

 だけど、森のこの場所が特別、というのは理解できる。

 数回、エルカに連れられて訪れたことはあるが、妖精たちの声がいっぱい聞こえてきたし、精樹の周辺の静謐な雰囲気にあたし自身、飲み込まれてしまったこともある。

 他の森とは、空気からして、違うのだ。

 神秘的な——なんていうんだろう。

 あの場所は地上であっても、人間の領域ではなく、精霊や神々のための場所なのだ。


 その場所が今、穢されそうになってしまっている。

 いや——事実、もう破壊の手は迫りつつある。


 森が紅に染まっているのは、夕日の光を浴びているから、だけではない。

 炎だ——。

 それが、このはじまりの森のあちこちから、迫りつつある。

 枝葉や茂みに火を放たれ、妖精たちが悲鳴をあげている。

 眠っていた樹の精たちも、紅蓮の色と迫り来る熱波、すべてを燃やしてしまう炎の気配に、怯えてしまっていた。


 ——こんなことをするだなんて、信じられない。

 たったひとりの裏切り者の存在により、エレド王国は滅亡しようとしている。

 東の大国に住まうアルフィリンの侵攻を導き、それだけでなく、聖域である、はじまりの森を破壊しようとしている。

 王国の根幹を根こそぎ、破砕するつもりなのだろう。


 山火事の恐ろしさは、あたしも理解している。

 炎に囲まれ、逃げ場が徐々に奪われていく恐ろしさは、身に染みている。

 大火への本能的な恐怖が、脚をすくませる。


 移動することの出来ない樹の精たちの恐怖は、きっとそれ以上だろう。

 徐々に近づいてくる炎を、何もすることが出来ず、恐怖のまなざしで見つめるしかできないのだ。

 その恐怖を思うと、ひどく心が痛む。


 今すぐ、引き返して、少しでも燃える火を消さなければ——と思うのだが、今はエルカだ。

 ——エルカさま……どうか、無事でいて……。

 あたしは、どんな神々も信仰はしていないが、もし、叶うのなら、願いたかった。

 それが、神々ではなく、魔族どもだとしても、構わない。

 彼女の命を救うことが出来るのなら——。


 さっきまで、聞こえていた妖精たちの声が遠ざかっていった。

 炎の色も、ここには届かない。

 緑の香りが濃厚になる。


 紅色の、首筋の後ろで三つ編みにした髪をなびかせながら、あたしは木々が疎らな場所へと脚を踏み入れていった。

 正面に、道のようなものがあった。

 しかし——獣道はなく、足元はびっしりと草に覆われていた。

 もうすぐだ。


 急がなければ——そう思うのに、恐れてもいた。

 頭ではもう、間に合わないだろう、と思ってしまっている。

 ほんの僅かでも可能性があるのなら——エルカを救い出せるのなら、それに賭けてみたい、とは思う。

 だけど、手遅れなら……その光景を見たくはなかった。


 エルカが殺されるのを阻むことが出来るとして——そこから先は?

 彼女を連れて、エレド王国から無事、脱出しなければならない。

 ふたりきりで、そんなことが果たして、可能なのだろうか……。


 ——いや……。

 唇を噛みしめ、あたしは木々の間を急いだ。

 余計なことを考えるには、よそう。

 今は自分に出来ることだけを、考えなければ。


 そして、あたしは林の間の天然の道の行き止まりにある、少し開けた場所へとやって来た。

 周囲の木々が途切れ、茂みが多くなる。

 正面には、大樹が地面から聳えている。


 あたしは、紫色の瞳を瞬かせて、そのとても大きな樹を見上げた。

 どのくらいの高さがあるのか、まったくわからない。

『あのエッセアルダは、エレドの王都のどの高楼よりも、ずっと高いのよ……』

 いつだったか、エルカから、はじまりの樹について、そう説明を受けたことを、あたしは思い出していた。


 それから、あたしは血の臭いが濃厚になっていることに気づき、顔をしかめた。

 血の臭いは、先程から漂っているのは、知っていた。

 草むらの上に、血の跡が続いている。

 大量に出血した人物を、引きずっていったのか——或いは、自分から歩いていったのか。


 その血の跡を辿るように、あたしは歩いていった。

 妖精たちが近づいてこないのは、この血のせいなのだろう。

 心臓が、どきどきとしてきた。

 まだ、望みはある——自分に必死に言い聞かせて、あたしは歩いていった。


 周囲には、暗がりが忍びよってきている。

 空には星がひとつ、またひとつ、と瞬きはじめている。

 足元や木々の影などが、闇の色を深くしてきていた。

 間もなく、森全体が夜の闇に飲み込まれてしまうのだろう。


 エッセアルダの大樹の幹の根元には、かがり火が焚かれ、そのお陰で、暗がりが迫ってきていても、この辺りは風景などを見分けることが出来る。

 かがり火などは、以前、エルカとここを訪れた時はなかったはずだ。

 それも、聖女やアリアンフロッドたちの力が、このエレド王国からなくなりかけている、ということなのだろう。

 エルカが生きていたら、かがり火をエッセアルダの側に置くなど、許さなかったはずだ。



-第2話に続く-

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