旅夜の情事 - 壱
案内された木賃宿(キチンヤド)の部屋は、小さいながら小綺麗なたたずまいだった。
畳は新しく、ほのかに青い唐草の香りが漂う。部屋の隅には小さな火鉢が置かれ、炭が赤く静かに燃えている。
窓辺には竹の簾が下がり、春の夜風がそっと入り込み、部屋に置かれた素朴な木の机や、壁に掛けられた小さな掛け軸を揺らした。掛け軸には、淡い墨で描かれた桜の枝が春の風情を添え、部屋全体に穏やかな雰囲気が漂っていた。
窓の外からは、遠くの里山で鳴く虫の声が、かすかに響いてくる。
「……どうしてあなたまで来ているのですか」
巫女は困り顔のまま、畳に腰を下ろした。彼女の巫女服の緋袴が、畳に柔らかく広がる。
「お前がひとりで旅などしているからだ」
鬼王の声はどこか不満げだ。
「お前を狙う連中が、そこかしこに潜んでいたぞ」
「…っ…もしかして道中、ずっと近くにいましたか?」
「村を出た後からな」
「それ…っ」
巫女はハッと息を呑んだ。
(そういえば前の村からの移動中、危険な道もあったのに、野盗にも盗賊にも会っていません!)
嫌な予感がして見上げると、男はニヤリと笑みを浮かべた。
「殺してはおらんぞ?」
何故か得意げな様子で男は腰を下ろした。
髪をくくる紐を解くと、巫女と同じような長い黒髪がバサリと広がり、畳に落ちる。
濃紺の着物に織り込まれた雲の柄が、火鉢の明かりに映える。肩幅の広い背の高い姿は、部屋の狭さに一層際立った。
巫女は男から受け取った風呂敷の荷物を隅に広げ、やれやれとため息をつく。
「手荒なことはやめてください……」
「お前こそいつまでこんな旅を続ける気だ」
「……そう簡単には終わりません。
戦で命を落とした人、飢饉と疫病で亡くなった人、大蛇(オロチ)との取り引きで生贄にされた人、……そして、大蛇の罠にかかり人喰い鬼の退治に行って──蓬霊山(ホウレイヤマ)であなたに返り討ちにされた人」
「……」
「あまりに多くの血が流れましたから」
巫女の声は静かだが、深い悲しみを帯びている。
多くの命が犠牲になった──。彼女の弔いと供養の旅はまだまだ終わりそうにない。
男は思わず問いを重ねた。
「…法師どもを殺した俺に報復はしないのか」
「しませんよ」
問いかける男へ、巫女は穏やかに微笑む。
その時、男は自らの擬態(ギタイ)を解き、鬼の姿に戻った。
黒髪が銀色に変わって、従者姿から…いつもの漆黒の衣に替わる。
鋭い牙が覗く口元がわずかに動くのを見て、巫女は言葉を続けた。
「報復などしません。人が人を殺すのが罪なように……" わたし " がモノノ怪を祓う事も、本来は道理に合わぬ所業です。悲しいですが」
巫女は風呂敷から天哭ノ鏡(テンコク ノ カガミ)を取り出し、手ぬぐいで丁寧に拭いていた。
鏡の表面が巫女の顔を鈍く映すと、そこには天狐の姿が映されている。
「だからお前は大蛇(オロチ)を殺さなかった、とでも言うのか?」
鬼はつまらなそうに、しとみ戸から外の景色を見ながら問う。簾の隙間から見える春の夜空は、星が瞬き、静かな里山の輪郭を浮かび上がらせていた。
「──…大蛇は、不老不死のモノノ怪です。どのみち殺しはできません」
「それがどうした。俺がその気になれば、生かしたまま地獄を見せてやれた……。鎖で縛り、地中深くに幽閉し、永遠に痛めつけてやったというのに」
鬼が不吉なことを言う。
冗談ではなく彼は本気だ。
鬼の本性はあくまで冷酷なのである。
巫女は表情を暗くし、少し考え込んだ後、ひとりごとのようにポツポツと話し出した。
「大蛇(オロチ)は……彼は不思議なモノノ怪です。ふつうモノノ怪は同族以外で群れませんし、干渉もしないもの。ですが彼は違います。彼ほど積極的に他者を観察し、関わろうとするモノノ怪を、わたしは知りません」
「……、だから?」
「少しだけ、……共感……ではないですね。おそらく同情したのかもしれません。何かを渇望しているのでしょうに……きっと、彼が欲する物は手に入らない」
「──…」
瞬間、部屋の空気がピリついた。
火鉢のそばに置かれた茶器がガシャンと割れ、中の茶が畳に飛び散る。
「…っ」
「奴に興味を持ったのか」
鬼が鏡を持つ巫女に詰め寄り、壁に手をついて逃げ場を奪った。
「どうなのだ…!」
男の身体が畳に影を落とし、部屋の空気が一気に緊張する。
「興味っ…というわけでは…!」
巫女は驚いて身を引くが、背後は壁で逃げられない。ジリジリと追い詰められた。
「あ、の…?」
鬼が顔を寄せ、真剣な表情で巫女を見つめる。
彼女は慌てて目をそらした。
「それに大蛇とはっ…今後は人に手を出さないよう取り引きをしました。彼はもう無害です」
鬼の息が耳にかかる。
巫女の頬が熱くなった。
「わかっている。これより二度と俺の前で奴の話はするな」
「そうします…っ」
(自分から話を始めたくせに……)
鬼の苛立ちをひしひしと感じつつ、勝手では?と思い、巫女はチラリと彼を見上げた。
「──…ッ」
そこで、至近距離でバチリと視線が合わさる。
黄金の瞳が火鉢の光に燃えるように輝くのを、間近に見た心が跳ね上がった。
……目をそらせない
「……ぁ」
「……不満か?」
鬼の顔がさらに近づく。
途端に巫女が縮こまり…顔を伏せるものだから、鬼は彼女の耳元で甘く囁いた。
「俺も自覚はしている……自身の行動思考、お前が絡むといつも支離滅裂であるとな」
鬼は本来敵を引き裂くための大きな手を、できうる限り優しく動かし、巫女のおとがいをすくう。
巫女も諦めたように、眉を寄せて白状した。
「それは……お互いさま……です」
「……」
「わたしもあなたに触れられると……っ、自分が自分では、なくなるようですから……」
身をよじる巫女が、恥じらいを隠せずそう言った。
彼女の琥珀色の瞳が情に揺らされる。
鬼はたまらずその唇を塞ぎ、深く長く口付けた。
....クチュ...チュ
「…ん……ふ………!」
巫女の小さな手が、鬼の漆黒の衣をそっと掴み、部屋の静寂が二人の吐息に満たされた。
火鉢の炭がパチリと音を立て、春の夜の虫の声が…遠くから寄り添うように響いた。
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