鬼の葛藤
──…
「こちらです、鬼王さま」
屋敷がある境界を離れて鬼界に戻っていた鬼は、自身が使役する式鬼(シキ)に先導され、鬼街のはずれにある森に足を踏み入れていた。
森の空は赤黒く濁り、血のような雲が重く垂れ込め、遠くで雷鳴が低くうなる。地面は岩と枯れ木に覆われ、ところどころに毒々しい紫の苔が這い、触れる者を拒むように妖気を放つ。
ねじれた木々は、まるで苦悶する魂がごとく不気味にうねり、枝の隙間から覗く赤い霧が、鬼街の尖塔を霞ませている。空気は重く、湿った匂いが鼻をつき、獣の咆哮が遠くで断続的にこだまする。
鬼界の森は、人の世とは隔絶された、冷たく荒々しい異界である。
「この先は、境界か?」
抑揚の無い鬼の声が式鬼(シキ)に問いかけた。黒い影のような姿をしている式鬼は、赤い目を闇の中でかすかに光らせ、恭しく答える。
「はい、鬼王さまの位置から四歩進んだ所が、入口です」
一見、ただの森の奥にしか見えない。
しかし鬼が足を進めると、空気が揺らぎ、透明な幕がゆらぐがごとく空間が歪んだ。
さらに彼が一歩踏み込むと、目の前には無人の洞窟が広がっていた。
「……」
岩壁は湿り、滴る水音が不気味に響き、暗闇の奥からはおどろおどろしい空気が漂ってくる。岩の表面には、爪で引っ掻いたような痕や、乾いた血の跡が点々と残り、恐怖に駆られた者たちが這いずった痕跡があった。
鬼はまず静かに洞窟を一瞥(イチベツ)し、鼻を鳴らした。
「人間の臭いがこびりついているな。大量の女か」
「そのようです。すでに無人となっていますが、痕跡が残っております」
「都(ミヤコ)からさらった人間を此処へ隠したモノがいるというわけだ」
鬼は面倒くさそうに息を吐き、洞窟の奥を見据えた。
「ちっ……呪いか」
暗闇の先に、静かに脈動する呪いの気配が漂う。
空気が重く、まるで無数の怨嗟が岩壁に染みつき、蠢いているかのようだった。
呪いに近付くことはできない。
鬼は洞窟の入口に立ち、片手をかざした。
すると黒い妖気が彼の手から渦を巻き、洞窟の入口を覆って広がる。
妖気は黒い霧となってうねり、岩と岩の隙間を縫うように這い、すぐに入口全体を覆った。霧が固まり、黒い結晶のような結界が形成され、鈍い光を放ち、洞窟の呪いを閉じ込めた。
最後に生ぬるい風が吹いて鬼の銀髪を巻き上げ、境界の封印を終える。
「さらった人間は喰われたのか」
「わかりかねますが、呪いが発生しているとなれば、その可能性が高いかと」
「面倒な」
無人の洞窟にこれ以上の手がかりはなく、鬼は踵(キビス)を返した。式鬼がその後を追う。
「さらに、これら人間の失踪が、蓬霊山の人喰い鬼の仕業とされていた件ですが…」
鬼界の森を戻りながら、式鬼が話を続けた。
「どうやら人界の人間が故意に噂を広めたようです」
「十中八九、その人間は、洞窟に女をさらったモノノ怪と繋がっているな」
「鬼王さまを討伐しようと考えたのでしょうか」
「ふっ…そこまで愚かではあるまい。それの狙いは、都にいる巫女や法師の始末だろう。現に奴らは俺に立ち向かい、死んでいった」
鬼の声には、後悔はないが、利用されたことへの僅かな腹立たしさが滲む。彼の黄金の瞳が、冷たく光った。
「お前は、拐われた人間の隠し場所が他にないかを探せ」
「かしこまりました」
鬼界から元の境界に戻った鬼は、屋敷の地下へと続く扉を開けた。
だが、瞬間、彼の足が止まる。
彼は、巫女の気配が屋敷から消えていることに気づいたのだ。
「……!」
「鬼王さま?」
辺りの空気が変わったのを察知して、式鬼が背後から尋ねる。鬼の周囲に、重い妖気が渦巻く。地の底から響くような圧力が、屋敷全体を震わせた。
「例の巫女が逃げ出したのですね。連れ戻しましょうか」
「いや……」
鬼の声は低く、感情が読み取れない。
「あの女はすでに人界に戻ったらしい。気配を感じない」
「境界を抜けたと仰りますか? いったいどのような手で……」
「知らん」
しかしその声には、抑えきれぬ怒りが滲んでいるのが明白だった。
式鬼が一瞬身をすくめる。
鬼は視線を横にやった。
そこには天哭ノ鏡(テンコク ノ カガミ)があり、静まり返った月夜の人界の風景を映し出していた。
焼け落ちた都の瓦礫が、月光に照らされて白く輝き、崩れた門の影が長く伸びる。遠くの里では、ただ風が枯れた田を撫でる音だけがサラサラと流れる。月は満ち、冷たく澄んだ光が、廃墟となった都を幻想的に浮かび上がらせていた。
鏡の表面は、まるで水面のように揺れ、静寂の中に深い悲哀が漂っていた。
「必要であれば人界まで探しに行き、連れ戻しますが」
「──…」
鬼は鏡をじっと見つめ、静かに呟いた。
「俺から逃げたならば、それはそれで、構わん」
「……」
「あの女は、俺にとって、…甘すぎる呪いだ」
「呪い…?」
「どれだけ執着し、支配し、蹂躙しようとも、あの女を手に入れられぬ。俺の方が力も妖気も上回っているのに、何故だ?わからぬ……」
そこまで呟いた鬼は、後ろで控える式鬼へ、消えろと冷たく命じた。
式鬼は一瞬躊躇い、言うかどうか迷ったすえ……去り際に忠告した。
「呪いの件が解決するまでは、鬼王さまもなるべく鬼界で過ごされたほうが宜しいでしょう。どうか鬼王さまご自身で、逃げた巫女を追い人界へ向かう事などなさりませんよう、お願いいたします」
「わかっている」
忠告を最後に、式鬼は影となって溶け、屋敷から消えた。
鬼は屋敷にひとりとなった。
静寂が重く降り、地下の部屋に冷たい空気が満ちる。
鬼は天哭ノ鏡の前に立ち、黄金の瞳をその表面に注いだ。巫女の姿、肌を重ねた時の熱が脳裏に蘇る。
どれだけ快楽を与え、妖気を注いでも、彼女は決して彼の手に堕ちない。その魂を手に入れようと求めども、彼女の言う美しさ、慈しみ、正義──それらは、鬼である彼には理解しがたいものだった。
(何故だ……)
彼は自問する。
巫女を支配しようとしたのは、暇を持て余したゆえの遊びだった。
だが、彼女の清らかさに触れるたび、理解できない感情に振り回される。彼女を乱そうとしたはずが、気付けば乱されているのは自分だった。
紡がれる言葉──彼女の不思議な温もりが、鬼の心に深く突き刺さる。
八百年にわたる孤独、探し物の果ての空虚さが、彼女の存在によってさらに色濃く浮かび上がる。巫女は鬼にとって、支配したい対象であると同時に、手にはいらない美しさの象徴だった。
(俺は……あの女をどうしたいのだ)
いっそ、探し出して、息の根を止めてしまおうか
このまま縛られ、理解できぬまま生きるくらいなら──
彼女の魂を完全に自分のものにできない苛立ちが、胸を焼く。だが、手放すという選択ができない。それがよけいに鬼を深みへとはめていくのだ。
彼女を失うことへの拒絶が、ここで初めて、鬼の胸を締め付けた。
(俺のものにならないなら……!)
苛立ちと執着
その葛藤が頂点に達した瞬間
────ポチャン
ひとつの水音が鬼の脳裏を満たした。
冷たく鮮明な音が、彼の思考を切り裂く。
「……!」
助け て
微かな声が、鏡の奥から響く。
鬼は迷いなく天哭ノ鏡に向き直り、考えるより先に片腕を突っ込んでいた。
腕は水面のような鏡の表面に吸い込まれ、大きく波紋が広がる。
「……っ」
次の瞬間に鬼が手を引くと、水に濡れた巫女が彼の手に掴まれ、鏡の中から現れた。
──冷たい水滴が白い肌を滑り落ちる。長い黒髪が濡れて肩に張り付き、弱りきった身体は震え、目は固く閉じられていた。
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