第三章

人界の様子



 ──…



 巫女が目を覚ますと、目の前に広がるのは古びた家屋の天井だった。


 煤(スス)けた梁に沿って、蜘蛛の巣が薄く揺れ、隙間から漏れる夕暮れの光が、埃の舞う室内をかすかに照らしている。小さな灯りが、土間の隅に置かれた火鉢で心もたげに灯り、薄暗い空間に暖かな橙色の揺らめきを投げかけている。家屋の壁は粗末な土壁で、ところどころ剥がれ落ち、葦で編まれたむしろが床に敷かれていた。


「あ、おきたね」


 そこで眠る彼女の隣には、年配の女性が座っていた。


 皺だらけの手には、粗末な布で拭かれた木の器が握られている。女性の顔は、風雨に晒されたような深い皺に刻まれ、しかしその目は優しく巫女を見つめていた。


「水をお飲み」


 女性は巫女をそっと起こし、器を差し出した。


「ここ、は……?」


 巫女は身体を起こし、辺りを見回した。


 身体は拭かれて清められ、彼女の華やかな着物は脱がされ、代わりに粗末な麻の衣に着替えさせられていた。麻の生地はざらつき、汗と土の匂いがほのかに混じるが、丁寧に畳まれた彼女の着物が、部屋の隅に大切に置かれているのが目に入った。


「……!」


 間違いない。ここは " 人界 " 。

 " 境界 " の外へ、彼女は出てきたのだ。


(赤い痣が、消えている……)


 鬼に吸い付かれて赤くなっていた肌も、いつの間にか元に戻っている。


「なして、あんなとこいた? お前さんの着物、上物だべ?あんた都から逃げてきた姫さんか?」


「…そ、それは」


 女性の質問が畳みかけるように続く。返答に困っていた巫女は、ハッとして聞き返した。


「ここは都(ミヤコ)から近いのですか?」


「ああ、そうだ。馬で走りゃ、朝も待たずに都に着くよ」


 巫女の胸に、衝撃が走った。


 大蛇(オロチ)は誓いを守ったのだ。彼女を人界に、しかも都の近くに送り届けた。


(ですが、それはつまり──)


 モノノ怪が人と交わす “ 誓い ” は、基本的に等価交換──彼女が都の近くに送られたということは、大蛇が彼女の身体にそれだけ満足したということ。


 巫女の身体が震え、嫌悪と悔しさが胸を締め付けた。首筋に這った大蛇の指、ヌルリとした蛇の感触、気が狂いそうなほどの快楽の責め苦が……脳裏に蘇る。


「震えとるな、寒いべか?」


 女性は心配そうに巫女を見やり、水の器を渡した。


「悪いが病人にやる薬はねぇ。食いもんもな」


「…っ…いえ、わたしは、問題ありません。ありがとうございます」


 巫女は水を一口含み、冷静さを取り戻した。


 そして彼女は女性の目を見つめ、静かに尋ねる。


「教えてください。この一年で、いったい何が起こったのですか?」


「ああ……」


 女性は目を伏せ、ため息をついた。


「初めは日照りが続いて、作物が育たんくなった。稲は枯れ、川は干上がった。そんで、恐ろしい疫病も広まってな。そんなこんなで生活が苦しくなってった時に、士族(シゾク)のヤツらが都に攻めてきたんだべ」


「……」


「若い娘はみんな、都(ミヤコ)に居座ってる士族のやつらに連れてかれちまった。許せねぇさ」


 巫女の顔が青ざめた。


 鬼の館で見た、連行される人たちの姿が脳裏に焼き付く。


 彼女が境界に囚われていた間に、人界は一変していたのだ。


「ご親切にありがとうございました」


 礼を言った巫女は、急ぎ立ち上がる。


 外に出るとそこは夕闇に包まれ、遠くの森から初冬の風が吹きこんだ。


「待ちなお前さん」


 そして彼女は家屋を出ようとしたが、女性が慌てて呼び止めた。


「村には近付くんじゃないよ! 村にはまだ病人がいるからね、伝染(ウツ)るよ」


 女性の言葉に、巫女は振り返る。


「疫病はおさまっていないのですか!?」


「まだ病に侵されているのは、幼い子どもたちが多いんだべ。健康な者は治ったが、子どもたちはまだ苦しんでる」


「そんな……」


 巫女の顔が曇る。彼女は一瞬考え込み、決意を固めた。


「でしたら、広めな建物に、わたしと、病の子どもたちを集めてくださいませんか。それと、なるべく澄んだ水を」


「何をバカなことを!」


 女性は目を丸くしたが、巫女の美しい瞳が真っ直ぐに彼女を見つめる。その清らかで強い光に、女性は言葉を失った。


「……!」


「お願いいたします」


 巫女の声は静かだが、揺るぎない力があった。女性はしばし見つめ合い、ついに頷いた。


「わかった……やってみるべ」




 ──



 村で一番大きな建物──古い蔵を改装した粗末な集会所に、子どもたちが集められた。


 土壁の隙間から冷たい風が吹き込み、むしろの床には薄い布が敷かれている。


 子どもたちは熱にうなされ、頬は赤く、額には汗が滲む。肌には赤黒い斑点が浮かび、まるで呪いの印のように不気味に広がっていた。ある子は弱々しく咳き込み、別の子は小さな手で布を握りしめ、うわ言のように母親を呼んでいた。


 幼い顔に刻まれた苦しみが、巫女の心を締め付けた。


(わたしが境界に囚われている間……助けに来れず、ごめんなさい)


 巫女は深皿に澄んだ水を満たし、人差し指をそっと浸した。


 彼女は胸に手を当て、目を閉じ、静かに念を唱え始めた。


 低く、しかし力強い声が蔵の中に響く。


 ──瞬間、眩い光が彼女の手から溢れ、水面を震わせた。


 光は深皿を越え、蔵全体を包み込むように広がる。むしろの床、土壁、子どもたちの小さな身体──すべてが柔らかな白光で満たした。




 蔵の外に集まっていた村人たちが、漏れ出た光を見て慌てふためく。


「いったいなにがおこってるんだ!」


 すだれを押して中に入ろうとする者もいたが、女性が「中に入るな」と叫んで制止していた。だが、光のあまりの美しさに我慢できず、数人がすだれを押し開け、蔵の中を覗いた。


 そこには、巫女が子どもたちを一人ずつ抱きしめ、深皿の水を口に含ませる姿があった。


 彼女の動きは慈愛に満ち、まるで母のように優しく、子どもたちの額にそっと手を置く。光が彼女の手から子どもたちに流れ込み、赤黒い斑点が一つずつ消えていく。


 ある子が目を覚まし、弱々しく呟いた。


「からだ……ラクになったよ、母ちゃん」


 村人たちはその光景に息を呑み、感動で涙を流す者もいた。


 巫女は最後の子に水を飲ませ、静かに安堵の息をついた。子どもたちの顔に、穏やかな眠りが戻っている。彼女の額にも汗が滲み、麻の衣が光に濡れて輝いていた。




「──…散れ!村人ども!」


「……?」


 その時、蔵の外から馬のひずめの音が近づいた。


 土を蹴る重い音が響き、村人たちがざわめく。


 すぐに、すだれが乱暴に押し開けられ、鎧をまとった侍が入ってきた。男は刀の柄に手をかけ、鋭い目で巫女を捉える。


「先ほどの怪しい光は、そのほうの仕業か? 村の外からも見えていたぞ。モノノ怪か?」


 それを聞いた村人たちが慌てて巫女を庇う。


「この方は村の子どもを救ってくれたんだべ! モノノ怪なんかじゃない!」


「救っただと……!?奇妙な真似を。おい、そのほう」


「はい」


「動じぬか……ますます怪しいヤツめ」


 侍は巫女をじろりと見つめる。


 しばらく彼女を睨んでいたが、その美しい容姿に気付いた後、口元に笑みを浮かべた。


 彼は刀を抜き、刃の先で巫女の顎を持ち上げた。


「人かモノノ怪かは知らんが……美しい女だ。領主さまへの良い土産になる」


 それを聞いた巫女は、抱いていた子をそっと布団に寝かせ、毅然と立ち上がった。


 麻の衣がわずかに揺れる。


「わたしを連れていくなら、お好きになさいませ」


 その声には、恐怖も屈服もない。


 侍の笑みが深まり、村人たちは息を呑んで見守るばかりだった。








 ──…





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