追放されたモノノ怪
屋敷の広間に残された巫女は、絹の布団に身を沈め、静かに息を整えた。
昼の光が薄れ、格子窓の外は徐々に薄暗くなっていく。帳台の隙間から差し込む光は、まるで夕暮れのような茜色に変わり、屋敷全体を静寂が包み込んだ。
白檀の香炉から漂う香りが、彼女の心をわずかに落ち着かせたが、胸の奥には言い知れぬ不安が広がっていた。
(また、鬼が境界を離れたようね…)
鬼の気配が消えたことを、巫女は敏感に感じ取った。
彼の重く冷たい妖気が、屋敷の空気からすっと抜け落ちる。
彼女は目を閉じ、咄嗟に境界を抜け出す手立てを考えていた。
だが、以前試みた逃走は失敗に終わり、今の自分では結界を破れない。そもそもそうと知っているから、自分を拘束するわけでもなく、鬼は姿を消したのだろう。
出口は見えず、彼女の心は閉じ込められた鳥のようにもがいた。
「……?なに?」
ふと、背筋に冷たいものが走る。邪悪な気配が、広間の空気をわずかに揺らしたのだ。
(彼とは違う、この気配は誰……!?)
巫女は身を起こし、薄絹の几帳の隙間から外を覗く。
そこには、音もなく立つ見知らぬモノノ怪の姿があった。
初めて見る存在だった。
それは、彼女と同じ年頃の青年の姿をしている。
肩上で切り揃えられた白髪が、薄暗い光にほのかに輝き、スラリと痩せた体躯はまるで影のように儚げだった。
屍人のように白い肌に、青い血管が浮き上がり、不気味な美しさを湛えている。彼の着物は黒に近い深緑で、裾が床を滑るように揺れていた。
「何者ですか」
巫女の声は鋭く、警戒心を隠さなかった。彼女の瞳には、相手に対する本能的な猜疑心(サイギシン)が宿る。
「さぁ、ただ、あんたの手助けをしようとな」
青年はニコリと笑みを浮かべた。
口元に浮かぶ笑みは、どこか不自然で、偽の温かみを帯びていた。
「怖がらなくていい」
「……っ」
スススッと着物の裾を引きずり、彼は流れるような動きで巫女に近づいてくる。巫女は手を上げ、制止の意を示した。
「止まりなさい。容姿も若くつくろっているようですが、あなたが膨大な月日を生きる狡猾なモノノ怪であると、わたしにはわかります」
彼女の言葉は鋭く、相手の秘めたる力を敏感に感じ取っていた。
その気配は、若々しい外見とは裏腹に、底知れぬ妖気を放っている。
青年の笑みが一瞬深まり、前髪の隙間から覗く目が鋭く光った。赤い瞳は縦に細長く、まるで蛇のようだった。彼が差し出した左腕には、銀に光る鱗が浮かんでいた。
「大蛇(オロチ)ですね」
巫女の声は冷静だったが、緊張が滲む。
大蛇(オロチ)はわずかに目を細め、感心したように口元を緩めた。
「よく知ってるな。人間の前に姿を現すのは稀(マレ)なんだが」
「そうでしょう。あなたたち大蛇は直接手を下すのではなく、その甘言で迷える人々を惑わし、悪事を働かせる」
巫女は寝具の帳台から出て、大蛇と正対した。
彼女の顔には、警戒と同時に、鬼との関わりで揺れ動く心の迷いが見え隠れしていた。
「──…そして今、あなたは、わたしの迷いに付け入ろうとしているのですか」
大蛇は低く笑い、余裕の態度を崩さなかった。
「話が早くて助かるねぇ」と呟き、彼女の言葉を軽く受け流す。
「だが勘違いしないでくれよ? 俺はあんたに害を与えたいんじゃない。ただ……鬼王の邪魔をしたいだけさ」
巫女の声が動揺する。
「彼と敵対しているのですか?」
「まさか、奴からすれば俺なんて眼中にない。鬼王はあんたに執着しているからな。あんたに関わるだけで丁度いい嫌がらせになるんだ」
大蛇の言葉に、巫女の心がざわめいた。鬼が自分へ向ける異様な執着、その裏に潜む孤独をすでに彼女は感じ取っていたからだ。
だが、大蛇の軽薄な口調に、巫女はさらに警戒を強める。
隙を見せない彼女へ
大蛇は面倒くさがるどころか、ますます愉しそうに詰め寄った。
「あんた……鬼王の秘密を知りたいんだろう?」
「……!」
その言葉に、巫女の息が止まる。
「コッチこいよ」
大蛇はニヤリと笑い、広間の奥へと彼女を誘った。
巫女は躊躇(タメラ)った。
だが、鬼が抱える真相を知りたいという思いが、彼女の足を動かしたのだ。
彼女は大蛇の後に続き、薄暗い廊下を進む。几帳の揺れる音が背後に遠ざかり、屋敷の空気はさらに重く冷たくなる。
大蛇は無言で歩き、床の一角に隠された跳ね上げ式の戸を指差した。
ギィと軋む音とともに戸が開き、石造りの階段が闇の底へと続いている。巫女は一瞬立ち止まり、冷たい空気に身を震わせたが、大蛇の赤い瞳が振り返り、促すように光る。
彼女は意を決し、階段を降りた。
地下の部屋は、静寂と妖気に満ちていた。中央に、一つの鏡が祀(マツ)られていた。
(これは何……?)
鏡は、暗闇の中でさえ神々しく光っている。
巫女は息を呑み、驚きに目を見開いた。
(この鏡は神器だわ…っ。まさか、どうして彼が持っているの?)
人の世で神々に祀られるべきものが、なぜ鬼の屋敷にあるのか。彼女の心に、疑問と不安が渦巻く。
「この鏡は人界に繋がっているらしくてね」
大蛇が静かに喋り、天哭ノ鏡を指で示した。
彼が言うように、鏡の中には人の世の風景が映されていた。
「鬼王はこれを覗いて、来る日も来る日も、一匹のモノノ怪を探しているらしい」
巫女は困惑する。
「それは、800年もの間、彼が探し続けているという……?」
「そうさ」
大蛇は低く笑い、遠い過去の話を始めた。彼の声は軽薄だったが、言葉の奥には重い真実が潜んでいるようだった。
「昔──あるモノノ怪が、人間からこの鏡を盗み、鬼界に持ち込んだ。そのせいで……まぁ詳しいことは知らないが、神の祟りとかいうやつか? 鬼界に呪いが広がったんだ」
その呪いを鎮めるため、モノノ怪は殺され、永遠に鬼界を追放されたのだという。
巫女は鏡を見つめて静かに尋ねた。
「その追放されたモノノ怪と、……彼は、どういう関係だったのでしょう」
大蛇は肩をすくめ、ニヤリと笑う。
「知らないねぇ。ずっと探し続けてんだから想い人か……と言いたいところだが、あの冷血漢にそんな感情があるとも思えない」
「……っ」
巫女は押し黙った。
彼女の心は、鬼の抱える渇望(カツボウ)に共鳴していた。この場に立ち、鏡と相対すると、不思議と伝わってくる。
何度も肌を重ねたことで感じた、彼の黄金の瞳の奥に潜む空虚さ──それは、何百年という時間を通した事で、ただの孤独や悲しみを超えた感情となっているのだ。
(来る日も来る日も、あの人は、いったいどんな想いで……っ)
彼女は鬼の心に触れたいと願い、同時にその深淵に怯えていた。
大蛇はそんな彼女の反応を、面白そうに伺っていた。赤い瞳が、まるで彼女の心を覗き込むように光る。
巫女はそっと鏡の縁に指を添えた。
キラッ....
その瞬間、鏡の表面が一瞬揺らぎ、チラリと “誰か” の姿が映し出された気がした。
長い生成色(キナリイロ)の髪、淡い着物、遠くを見つめる瞳──。だが、彼女は思わず目を背けた。
心のどこかで、その姿を見ることが、耐え難い苦しみを自分に与えてくるのではと、そう直感したからだった──。
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