第18話

 次の町には本当に海があった。

 山を抜けてすぐに大きな青い海が広がって、昨日感じた塩の匂いがする湿った風が吹き付けてきた。

 木の橋がたくさんあって、そこに馬車みたいな変わった乗り物が並んでいる。それが船だってベンが教えてくれた。これで馬車みたいにいろんなところへ行けるんだって。馬も繋いでないのに、すごい不思議な乗り物だ。水に浮いてる、すごい。

 泊まれそうなお店もいっぱいあった。

 俺はどうしても海の近くがいいと言って、ちょっとおしゃれな高い宿を選んだ。

 道を挟んだ向かいがすぐ海なんだ。窓からも海が見える。一階にはピッカピカの黒いピアノがあった。おしゃれ過ぎて、今までの町みたいな活気のある曲よりもしっとりした静かな曲が多く流れていた。

 荷物を置いたら、俺はビンだけ持って、すぐに外に出た。

 着ていたローブを脱ぎ、ブーツと靴下を砂地に置いて、ビンを抱えたまま、真っ先に海に向かって行った。

 川と同じように水は冷たい。透き通っていて、下の砂とか魚も見えるんだ。それに川と違って、すごい力で押し流されそうになる。何度も何度も前へ後ろへ。変な感じ。でもこの力強く響く音は好きだ。

 海と空がくっついてる遠い先の先の方がすいへいせんって、馬車でジャスティスが言ってたっけ? どっちも同じ色だから境目なんて分かんないや。でもきっと陽の光がキラキラする方が海だ。

 しゃがみ込んでビンを砂に半分埋めたら、ざぱーって水が砂をさらっていった。流石にコインがいっぱい入ってるから、ビンは流れなかったけど、でもすごい。

 追いついてきたジャスティスも同じように、ばしゃばしゃと海に入って行って、冷たいと言いながら、水を蹴り上げた。水滴がこっちにも飛んでくる。

 水は川と同じで透明だから、いつもみたいにその水を両手ですくい上げてすすった。水が塩辛くて思わず噴き出したけど、ジャスティスは一人で笑っていた。

「これで料理出来そう!」

 荷卸しをしていたメルディが、早く手伝ってと呼ぶから俺は戻った。ブーツとかビンとかローブを抱えて、裸足で歩いた。道には足跡が残っていて、それがなんだか面白かった。同じようにジャスティスが追いかけてくる。足跡が並んでて、やっぱり面白い。

「クライブ、しんどくない?」

「大丈夫」

 俺はそう答えると、食料品の入ってた箱を担いで、宿の二階まで上がる。

 広い部屋だ。一人一部屋のベッドルームがあるみたい。しかもすごくきれい。高いだけはある。入ってすぐの大きな部屋には六人分の椅子が並んだテーブルがあって、両端にベッドルームが三つずつ並んでる。一部屋多いや。

 俺は真っ直ぐ正面の窓まで走って行った。

 カーテンを開けたら、海が良く見えた。ざぱーって音がする。

「洗濯物出しといてよ」

 ジャスティスに言われて、俺はうなづいた。

 窓の下のフカフカの赤いソファーも大きい。ここで十分寝れそうだ。体重をかけたら大きく揺れた。

 メルディが俺の隣りに座ると、フードをかぶせてきた。

「かぶってな、ここは人が多いから」

 俺は大人しくフードを深くかぶると、メルディを見た。

 メルディは少し懐かしそうな顔をして、海を見ていた。風に吹かれて、気持ちよさそうな顔をしている。きっとメルディは海なんて見慣れてるんだろうな。

 どうしてだろう? 理由もないのに、胸がドキドキするんだ。それにうれしい。まるでこの海みたいにキラキラしてる。それになにもかも全てが色鮮やかに見えるんだ。色鉛筆を床にぶちまけたみたいだ。

 このままメルディのそばに座っていたいな。

 それだけなのに、どうしてこんなに胸が苦しくなるんだろう。もしかして、あのヤバい色の薬、飲まなきゃいけないのかな? あれ、飲みたくないな。

 ジャスティスが俺を見下ろして、きっぱり言った。

「ちゃんとピアノ弾いて、稼いできてからくつろいでくれる?」

 メルディが噴き出した。

「確かに! この宿、高いんだからね」

 俺は仕方なく立ち上がると伸びをした。

 何を弾こう。どんな曲だったらみんなが喜んでくれるんだろう? きっと明るい曲はこの店に合わないよな。でも今はそんな曲を弾きたいな。

 俺はメルディに言った。

「聞いてて」

 そして真っ直ぐ部屋を出ると、廊下を突っ切り、階段を駆け下りた。

 おしゃれな飲み屋には、俺の恰好は似合わないかもしれない。少し不安になりながら、店主のおじさんに尋ねた。

「ピアノ、弾いてもいいですか?」

「いいよ、大歓迎。次どうぞ」

 俺はワクワクしながら、きれいなピアノを眺める。

 今の人はすごく落ち着いた曲を弾いている。歌ってる女の人がいて、それもすごくきれいだった。ただ、こんなに明るい街なのに、歌詞も曲もくるしくなるんだ。きっとこの曲を作った人は人を泣かせるような歌にしたかったんだろうな。

 お客さんの中には泣いている人もいた。

 俺もやってやるんだ。

 両手をぐーぱーしていると、メルディとベンが降りてきた。後ろにはレイチェルとジャスティスもいる。大丈夫。この間、前の町で聞いた落ち着いた曲を弾いてみよう。あれなら涙なんて出ないから。

 メルディが俺に言った。

「頑張れ」

 うれしくて、俺はうなづいた。

 俺はあいたばっかりのピアノに向かって、ゆっくりゆっくり歩いた。

 この瞬間は好きじゃない。

 お客さんみんなに、本当に出来るのかって見られてるみたいで居心地が悪いから。

 でも、思い出すんだ。音楽室のドアに手をかけたあの日みたいに、きっと胸がドキドキして、きっとうれしくなるって。あのピアノに向かってると思ったら、何にも心配いらないんだ。

 ピアノの前で一回お辞儀をする。これはレイチェルにした方がいいって言われたからだ。なんかよく分かんないけど、れーぎなんだって。確かにした方がチップをもらえる。

 顔を上げると、お客さんはまだ泣いていた。俺は椅子に腰かけて、少し考える。

 まずは少し静かな曲から始めようかな。いきなりじゃ、いい曲でもイマイチに感じるかもしれないから。

 ピカピカのピアノに指を滑らせて目を閉じる。深呼吸をして、そして、鍵盤を叩いた。

 きれいな音だ。懐かしい。この間の宿のピアノとは全く違う、すごくきれいな透き通った音がする。まるで海みたいに広く響く。弾いていて、気持ちがいいくらい、どの音もきれいなんだ。

 胸がドキドキする。楽しくて、苦しいくらいだ。

 弾きながらぱっと顔を上げたら、メルディがこっちを見ていた。

 それがうれしくて、ただ楽しくて、俺は夢中で鍵盤を叩いた。

 店中に響くきれいな音がどれもすごく透き通ってるんだ。でも色鮮やかに聞こえる。秋の楓の葉っぱみたいだ。そう、色づく森の楓の木々みたいに。

 最後の音を叩くのはいつも、もったいない気がしてしまう。でも終わらない曲なんてないから、俺は最後の音を弾く。だんだん消えていく音が今度は拍手に変わる。

 この瞬間は好きだ。

 気に入ってもらえたんだって思うと、胸が潰れそうなくらい苦しくなる。これがうれしいだって、教えてくれたメルディもちゃんと聞いてくれてる。すごくうれしい。

 拍手が止んだら二曲目、今度は明るく楽しい曲を弾く。

 鍵盤を叩く指が軽い。まるで踊ってるみたいに自由に鍵盤を走っていくんだ。それがうれしくてたまらなくて俺は笑った。

 もっと早く、村を出たら良かった。こんなに面白いものがあるって知ってたら、あんなところ、さっさと出ていたのにな。

 気付いたら隣りで、さっきの歌ってた人が笑顔で歌っていた。

 俺はこの曲の歌詞を知らないけど、この人は知ってるみたいだ。有名な歌なのかな? その声に合わせて指を走らせていく。きれいな声だ。強く、弱く、響く音どれも透き通って聞こえる。まるで海みたい。波みたいに引いていったと思ったらざばっと押してくるんだ。

 顔を上げたらまた一人、今度は知らない楽器を弾いていた。どんどん増えてくる。

 どれもすごくいい音がするんだ。楽しい。楽しくて仕方がない。

 だから、この曲の最後はすごくもったいないと思った。終わらせちゃうのかって。

 でも顔を上げたら、全然知らない人達がみんな俺を見ていた。息を合わせて、俺は最後の音を弾いた。音が溶けるように消えていくと、今度は拍手の音がたくさん降ってくる。

 俺は立ち上がるとお辞儀をして、一緒に弾いてくれた人達と握手をした。

「凄くよかったよ」

 歌ってた女の人がそう笑う。

 知らない楽器を弾いてた人達も同じように言ってくれた。

 胸が苦しいな。ドキドキして止まらないんだ。でもこの苦しいのは嫌いなやつじゃない。うれしくて、舞い上がりそうなくらい苦しいんだ。ここでピアノを弾けて、本当によかった。

 俺は笑って、ありがとうと返すのが精一杯だった。

 いつも通りテーブルを回ってチップを貰ったけど、今日はいつになく多かった。高い店だから? それにしたって分厚い札束になった。こんなの見た事ない。それにメルディとみんなが座ってるテーブルに戻った後も、直接チップをくれる人がたくさんいた。みんな笑ってた。それに、カウンターにいたおじさんがオレンジジュースをおごってくれた。

 メルディが笑顔で俺の背中を叩いた。

「凄いじゃん、どこで覚えたんだい?」

「この前、町で聞いたよ」

「そうじゃなくて、それをどこで練習したんだい?」

 俺はオレンジジュースを見つめた。

 そういえば、俺、どうしてあの曲弾けたのかな?

「なんとなく」

 俺はそう答えた。

「なんとなくであんなに弾けんの?」

 メルディは俺を見つめる。

 どうしてだろう。なんか苦しい。

「俺だって、どうして弾けるのかなんて分からないよ」

 胸が苦しい。ドキドキがもっと大きくなってくる。息も出来ないくらい、胸が痛む。なんでかな? 苦しいんだ。

 俺はすぐ前にいたジャスティスの服の袖を引っ張った。

「苦しい」

 ジャスティスは慌てた様子で、ポケットからあのビンをいくつか出すと、コルクを抜いて、俺に押し付けた。嫌だなって思ってたら、無理矢理口にねじ込んできた。

「ちゃんと飲んで」

 飲んでどうこうなるとは思えないけど、俺は大人しくそれを飲み干すと、オレンジジュースで流し込んだ。気分が悪くなったりはしないみたいだけど、苦しいのは治らなかった。少し待ったけど、本当に全く効果なし。

 結局俺はジャスティスに、部屋に連れ戻された。

 ベンが心配してついてきてくれたのがうれしかった。

 ベッドに寝かされてる時に、ジャスティスが言った。

「顔、赤いよ」

 なんでだろ? 大人しくベッドに横になる。

 まだドキドキする。でもこれをどう言えばジャスティスに伝わるんだろう。俺には苦しいとしか言えない。ぎゅうって苦しくなるんだ。

 突然、ベンが言った。

「クライブはどんなふうに苦しいんだよ?」

 俺は考えた。

 うれしいとかに似てるけど、でももっと苦しい感じがする。胸の奥がぎゅうってするように痛い。まるで潰されてるみたい。

 答えられないでいたら、ベンがベッドに座って、ジャスティスに言った。

「案外ただの恋かもしんねぇぞ」

「恋? クライブが?」

 ジャスティスはそう言って、バカにしたような顔で俺を見下ろしてくる。

「なんだよ、それ?」

 俺は二人に尋ねた。

 ベンが困った顔をした。

「お前、恋って分かんねぇの?」

「だから聞いてるんだけど」

 俺はむっとしてベンをにらんだ。

 ジャスティスがそんなの無視してニコニコしながら話し始めた。

「まるで苺のタルトみたいな感じじゃない? こう、甘酸っぱくって切ないっていうか、なんていうかさ~。苺みたいに甘いんだけど、酸っぱくって、食べきっちゃったらもったいないなって思うくらい好きになるの」

 コイツ、例えがお菓子ってなんだよ? 苺のタルトを食ったってこんなに苦しくならねぇっつの。確かにジャスティスのタルトは最高に美味いと思うけど。

「ジャスティスの例え、分かりづら過ぎ」

 ベンが呟いた。

「誰かの事が凄く好きになるんだよ。分かる?」

「全然」

 ジャスティスはそう笑った。

「レイチェルと一緒にいるだけで、ドキドキしちゃってさ、心臓が爆発しちゃうんじゃないかってくらい苦しくなるんだよ? でもその苦しいのも愛おしいくらい、好きで好きで苦しくなるんだ」

 ベンが鼻で笑った。

 ジャスティスは全然気にしない。

「手を繋いでるだけで幸せなんだよ? 凄くない?」

「分かんねぇ」

 ベンは俺の頭をぺちっと軽く叩いた。

「クライブは一回、本でも読んで勉強しろ」

「読めないから勉強出来ねぇよ」

 俺は呟いた。

 本当になんでなんだろ。俺も文字くらい読めたらいいのに。ちゃんと学校に行きたかったな。そしたらこんな事でジャスティスなんかにバカにされたりしなかったのに。

 そう思ったらなんか悔しくて、ジャスティスには背中を向けた。

 そりゃメルディといたら毎日うれしいよ。一緒にいてくれるし、嫌な事しないんだから。それにあったかいし、そばにいられるとうれしい。

 だけど、ベンといたってうれしい。

 確かにベンがいくらそばにいて笑ってくれても、メルディが一緒にいる時みたいにはならない。今だって、本当は下でメルディと一緒に座ってたかった。一緒にいられないとなんだか寒いんだ。

「オレ、てっきりメルディが好きなんだと思ってたのになぁ」

 ジャスティスが言った。

「いっつも一緒にいるし、メルディとは話すじゃん。オレとは話してくれないのに」

「そうか? オレにも言ってくれるぞ」

「そうじゃなくて。さっきなんて、見ててって凄く嬉しそうに言ってたじゃん」

 ジャスティスは笑った。

「あれ、メルディに見ててほしかったんじゃないの?」

 そうだ。メルディに見ててほしかったんだ。

 俺ははっとして頭を抱えた。

 俺、メルディに笑ってほしかったんだ。それだけだった。だからメルディが笑って背中を叩いてくれてうれしかった。心臓が大きくはねた気がした。

「こいだったらどうなるんだよ?」

 俺は二人に尋ねた。

「どうって、一緒にいたければいればいいんじゃないかな?」

 ジャスティスはそう言った。

「ジャスティスってめちゃくちゃ単純なんだな」

 ベンが笑う。

「もっと複雑なもんだってあるだろ? 訳があって一緒にいられないとか、先立たれちゃったりとか」

 俺は起き上がった。

「そんなの嫌だ」

 二人が俺を見た。ジャスティスはニヤニヤするし、ベンは思いっきり噴き出した。

 何? すごく失礼なんだけど。二人して酷い。

「それが恋だよ、クライブ」

 ベンは俺の頭を撫でた。




 

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