第13話
隣り町には海があるらしい。
一階の飲み屋で聞いた。町に見た事のない魚が売ってるのは、そこから持ってくるからだって言っていた。
俺は一日に三回、ピアノを弾いた。
俺しか弾けないんだから仕方がないけど、ジャスティスがいちいち文句をつけてくるからムカつく。あいつ、めちゃくちゃ音痴のくせに、もっとラストは盛り上げろだのなんだの言ってくるんだ。その言葉があんまり面倒だから、弾かないって言ってやった。
そしたらベンの提案で、ベンとメルディが俺の演奏中にチップを集めて、その間にレイチェルとジャスティスが町で買い物をするようになった。好きなようにピアノを弾けると、やっぱりお客さんも喜んでチップをくれた。ジャスティスの鬱陶しいツラ見なくて済むと、こんなに気楽だなんて知らなかった。
こんなふうにいろんな事を考えてくれるベンは、やっぱりいい奴だと思う。本当に友達だって思ってくれてるのかもしれない。そうだったらいいな。
二日でたっぷり一か月分くらいの生活費を稼いでから、次へ移る話になった。
俺はピアノを弾く以外、ベッドでゴロゴロしてたらいいだけだから、この生活も悪くないとは思ってる。
メルディが美味しいお菓子を選んで、買ってきてくれた。
ジャスティスも俺も見た事がないものばっかりで、どれも美味しい。村じゃクッキーやケーキは見た事があったけど、それ以外の甘いものなんてなかったから。
俺はコットンキャンディってやつが気に入った。真っ白で雲みたいなふわふわのが、口に入れたらしゅって消えちゃうんだ。なのに甘くて、なんだか胸が暖かくなる。
開け放ったドアの向こうから、ジャスティスの声が聞こえる。また変わった焼き菓子を見つけてきたらしい。重そうな紙袋を抱えたベンが一緒に部屋に入ってくるのが見えた。メルディとレイチェルも一緒だ。あの二人、やっぱり仲がいいみたいでよく二人でお茶を飲みながら話してる。
メルディが言った。
「クライブ、いるかい?」
俺はベッドに横になったまま、いると返した。
ここ、太陽がちょうどいい感じで当たるから、寝心地最高なんだよ。全く動きたくなくなるくらい。本当はピアノを弾くために起きなきゃいけないのも嫌なくらい。
「クライブさぁ、そろそろ太るんじゃないの?」
メルディが言った。
「いいよ別に」
頭だけ動かしてメルディを見たら、美味しそうな匂いのする紙袋を持っていた。お土産かな。美味しそうな、甘い匂いだ。
「それ何?」
「起きたらあげるよ」
メルディはそう笑うと、くるりと背中を向けて大部屋のテーブルにそれを置いた。取りに来いとばかりにソファーに座ると、また本を読み始めた。
レイチェルが笑ってる声が聞こえる。
「クライブって意外とインドア派だよね」
「インドアどころか、引きこもりだよ?」
「ジャスティスだって引きこもりじゃない」
「クライブと一緒にしないでくれる?」
最近、レイチェルとジャスティスのやり取りはこんなのが多いなと思いながら、俺はベッドからのっそり起き上がり、重い体を引きずってドアまで行った。なんか今日はだるい。
「ジャスティスと一緒にすんなよ」
俺はレイチェルの背中に言った。
「寝癖ついてるよ」
「いい。部屋から出ないから」
俺はそう返して、メルディの横に座った。
最近の俺の定位置はここ。メルディとベンの間。
二人とも、すごく温かいんだ。ここにいると落ち着く。まるで春の柔らかい日差しがさす、お気に入りの木陰みたい。
「やっぱりオレ、絶対クライブなんかと似てないよ」
ジャスティスが言った。
俺はテーブルの上の紙袋に手を伸ばす。
ぐらぐらと視界が揺れて、気分が悪い。なんだか今日は体が重いし、眠たい。いつもの事なんだけど、それでもこの体にはうんざりする。
テーブルに左手をついて、体を支えていたら、メルディとベンが俺の背中を撫でた。
「大丈夫か?」
ベンが俺を座らせる。
メルディがため息をついた。
「体調が悪いならそう言いなよ」
「こんなのいつもの事だから」
俺はそう返して、深呼吸をする。
いつだってそう。昔から体調の良い日の方が少ないんだ。このくらいだったら大した事じゃない。本当に調子が良くないんなら、そもそも俺はベッドから出られてない。
ジャスティスも言った。
「本当だよ? 今日は元気な方だ」
でもメルディどころか、レイチェルすらジャスティスの言葉を信じやしない。
「コレ、どう見たって普通じゃないって、ジャスティス」
俺はそのまま大丈夫って言ってるのに、ベンにベッドまで連れ戻される。
あんなに温かかったベッドは、もうすでに冷たくなっていた。
「移動、明日に延ばそうか?」
「すでに嗅ぎつけられてんだろ? このままここに居るのも危ない」
「出来ればこんな状態で動かしたくないよ」
メルディは俺を見下ろす。柔らかいシーツを広げて俺にかぶせると、口唇を噛み、ゆっくりと言葉を選びながら言った。
「クライブは自分の体が思ってるよりずっともろい事をちゃんと理解した方がいい」
「ジャスティスより体が弱い事くらいは分かってるよ! だからってベッドから出られないほど、酷くないって言ってんの」
俺は体を起こして、メルディとベンに言った。
「本当になんともない」
二人はまだ疑うような顔をしていたけど、俺は無視してベッドを出るとソファーに戻った。今度はフラフラしても出来るだけ踏ん張ったつもり。そんなに酷くないんだから、心配されたくない。
レイチェルが何かあったら言ってねと言うと、自分の着替えの入った袋を抱えて部屋を出て行った。
ジャスティスがベンに言った。
「ほらほら、早くしなくちゃ日が暮れちゃうよ」
そして俺に無理しちゃだめだよとだけ言って、レイチェルを追いかけて出て行った。抱えていた紙袋は食料なのかも。
俺はメルディを見た。
メルディはじっと口をつぐんだまま、ベッドに座っていた。
「俺、本当に平気だから」
「アンタって本当に……」
俺はにっこりと笑い返すと、足元にあった自分の着替えの入ったペラペラのズタ袋を抱えた。俺の荷物ってこれだけだ。着替えが三枚ずつとビン。剣もナイフもメルディに返してもらってないから。
部屋を出ると、ゆっくりと階段を降りた。
海ってどんな感じなのかな? 大きくて広くて、青いって聞いたけど、それって空も同じじゃん。どう違うのか、すごく気になる。ジャスティスが天国みたいな場所らしいとか、ずっと昔、言ってったっけ? どんな場所なんだろう。
馬車はすでに準備が出来ていて、ジャスティスが最後の荷物を積み込んでいるところだった。荷物はほとんどが食料と水みたいだ。ジャスティスも俺と一緒で荷物は少ないから。
レイチェルが楽しそうに馬とじゃれていた。
「クライブは中にいて」
レイチェルはそう言って、俺からズタ袋を取り上げた。重くもなんともないんだけど。
「それくらい自分でやれるって」
でもレイチェルは聞かずに俺を馬車に乗せると、座っててと言って無視。ジャスティスが笑ってるのが余計にムカつく。なんだよ二人して。
俺は畳んだままだった自分の分の毛布を広げると、座ったままそれを肩からかぶる。もこもこしてて、暖かい。干したばっかりだから、お日様の匂いがする。
しばらくするとベンが来て、最後の荷物だからと言って、ジャスティスのかごを持ってきた。メルディがその後ろにいて、黙って乗り込んでくる。
ジャスティスはニコニコしていた。
「メルディが心配するような事にはならないよ。大丈夫」
俺もその意見にだけは同意すると思いながら、のんびり幌の間から外をのぞいていた。
確かに町人の中には、俺を見ている奴がいた。頭が目立つだけだろうと思ってたけど、そういう訳でもないらしい。ジャスティスは気付いていないみたいだったけど、確かに残念そうな顔をしている連中がいる。そんなに数は多くないけど、数日いただけでこれじゃ、本当に俺なんかの血に価値があるのは本当みたいだ。
俺はぼんやりとそんな事を考えていた。
レイチェルが乗り込んできて、代わりにベンが出て行く。
今日はベンが馬車を操るらしい。なんでみんな出来るんだろう?
ジャスティスが俺の正面に座ると、さっきの紙袋をくれた。美味しそうな小さいケーキが一つ入っていた。最近、ガミガミ言わなくなった。ちょっとキモイ。
「海ってどんなのかな?」
俺は無視してケーキにかぶりついた。
「塩辛いって本当かな? 気にならない?」
「そうだな」
美味い。ジャスティスの焼き菓子も美味いけど、これは今まで食べた事ないかも。なんてお菓子なのかは知らないけど、貝殻の形をしたカップケーキみたいな感じ。ラム酒が入ってるのか、ちょっと辛いところがまたいい。紅茶によく合いそう。
「聞いてないでしょ?」
俺はジャスティスを無視して、残りを口に入れるとメルディを見た。
隣りで難しい顔をしながら外を見ている。今日は髪を結ってないから、風でこっちに髪が流れてきてちょっと邪魔。でも揺れる長い髪は見ていて飽きない。なんだかひきつけられるんだ。
レイチェルはそんなの無視して、楽しそうにジャスティスに話しかけた。
「ジャスティスがこの間焼いてくれたケーキも美味しかったよ」
「そう? なんでも作っちゃうから言ってね」
コイツ、マジで単純なのな。自分の弟のバカさ加減にうんざりした。
しばらくそのまま、馬車は進んだ。ガタゴトガタゴト、音がする。外はまだ明るいけど、日が傾いてきていた。もう少ししたら、薪拾いかな? 今夜は野宿になりそうだ。馬車があるからそんなに大した問題じゃない。
メルディはまだ仏頂面で外を見ている。
俺はメルディに尋ねた。
「まだ怒ってんの?」
「怒ってないよ」
メルディは急にこっちを見た。
「ただ、嫌な予感がするだけだよ」
嫌な予感ね。あてにならねぇっつの。
でもベンが急に馬車を止めた。
「ジャスティス、クライブ、伏せてろ」
今更何言われたところで驚きもしない。
ジャスティスだけ、素直に伏せてた。
馬車をぐるっと囲むように、毛むくじゃらの男が何人も立っていた。幌から顔を出した俺を見て、連中の目の色が変わる。ニヤリと怪しく微笑む口からは鋭く長い歯がのぞいていた。
人間じゃない。魔物だ。
「ダンピールだぞ、本当にいた」
俺はそのまま、外を見ていた。
頭を引っ込めて伏せてるべきなんだろうけど、どうでもよかったから。殺してくれるのなら、それがなんだって関係ない。この気持ちだけはずっと変わらない。
「狼人間だ」
ベンの声が聞こえた。同時にふさふさの毛が、俺の腕を掴む。それに長い爪が付いてる事に気付いた時には、馬車から引きずり降ろされていた。抵抗した方がよかったのかもしれないけど、どうする事もできないまま、俺はぼんやりと抱えられていた。
「悪いな、魔物狩人に勝つためには、その血をもらわなきゃならないんだ」
きれいな銀色の毛を生やした男が言った。そして、俺の腕にかぶりつこうと口を大きく開ける。白くて鋭い歯が、ギラリとナイフみたいに輝いた。
いつもだったら、俺は抵抗もせずに黙って食われてたかもしれない。
だって、死にたいんだから。今だって死にたい筈なんだ。今も腹の傷が時々疼くのに、死にたくても死ねない。息をするのも、目を開けているのも、脈を打つのも面倒なのに。それなのに、俺はとっさにそいつの顔面をぶん殴って、俺の腕を掴んでいた方を振り払おうとした。
理由は分からない。
でも、俺はその時確かに、死にたくないって思ったんだ。
ピアノが弾きたい。海が見たい。メルディとベンの間に座っていたい。
そんなふざけた理由しか思い当たらないけど、でも、本当に嫌だったんだ。
ベンが魔法を使ったのか、俺を狼男どもからひっぱりだして、叫ぶ。
「走れ」
乾いた地面に転げ落ちながら、必死で起き上がった。ベンに引っ張られて、馬車に向かって走った。苦しいけど、立ち止まりたくなかった。止まっちゃいけないと思った。
狼の荒い息が聞こえてぞっとする。鳥肌が立つほどに。
そうだ、怖い。怖いんだ。
今まで怖いなんて思った事はない。だってずっと生きていたくなかった。刺された時も、崖から落ちた時も、腹を自分で刺した時だって怖くなんかなかった。
なのに怖くて、振り返る事も出来ずにいた。ただただ前を走る馬車に飛び乗り、メルディに引っ張り上げてもらうまで怖くて、震えていたんだ。
「どうしたんだい?」
俺はメルディの温かい体に腕を回して、しがみついた。
心臓がまだ落ち着かない。
怖いなんて、不思議で仕方がなかった。
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