三
努力という名の拷問は、何の結果ももたらさないまま、ただ私の心身をすり減らしていった。
そして、その最初の「結果」という名の断罪が、容しゃなく私に下される日がやってきた。
中間試験。
私にはもう、以前のような絶対的な自信はなかった。
あったのは、ただ、ここで負けるわけにはいかないという、崖っぷちに追い詰められた獣のような、悲壮なだけの意地だった。
私は残されたプライドの全てを賭けて、この数日間の戦いに臨んだ。
持てる力の全てを注ぎ込み、一問一問に、まるで怨敵に挑むように食らいついた。
試験中も、思考の霧は一向に晴れなかった。
ペンが何度も止まり、頭の中が真っ白になる。
焦る。思い出せない。
分かるはずなのに、言葉が出てこない。
それでも、私は諦めなかった。
空欄だけは作るまいと、曖昧な記憶の断片を必死にかき集め、解答用紙を埋めていった。
アリサ・スノワは、常に結果を出す人間なのだから。
そうでなければ、ならないのだから。
しかし、数日後に返却された答案用紙に記された点数は、私のそんな必死の抵抗を、冷ややかに嘲笑うかのように、さんさんたるものだった。
今まで常に学年トップを維持してきた私の成績は、見る影もなく急落していた。
かろうじて平均点を上回るのがやっと。いくつかの科目では、平均点すら下回っていた。
その数字が、現実のものとして理解できない。
信じられない。信じたくない。
クラスメイトたちが、それぞれの結果に一喜一憂している。
その喧騒の中で、私の手元にある答案用紙の束だけが、まるで異物のように重く、冷たかった。
「スノワさん、どうしたんだろうね、今回」
「ちょっと油断したんじゃない? いつもトップだから」
「『氷の女王』も、ついにメッキが剥がれたって感じ?」
ひそひそと交わされる囁き声が、私の耳に届く。
その一つ一つが、私のプライドを、無数の焼けた針で容赦なく突き刺していく。
痛い。やめて。見るな。
でも、私は何も言い返せない。
事実、私は「敗北」したのだから。
誰のせいでもない、自分自身の知性の劣化によって。
私はただ、無表情の仮面を顔に貼り付けたまま、唇を血が滲むほど強く噛みしめた。
指先が、悔しさと、そして得体の知れない恐怖で、微かに震えているのを感じた。
試験の結果は、頭から離れない黒いシミみたいだった。
クラスの子たちの視線が、前よりもずっと痛い。
かわいそうだって思われてる? それとも、馬鹿にしてる?
もう、どっちでもいい。誰の声も聞きたくない。顔も見たくない。
一人でいるのは慣れてるはずだった。
でも、今のこれは…違う。冷たくて、重くて、息が詰まる。
本当に怖いのは、外じゃない。私の中にいる。
頭の中に、いつだって「昔の私」がいるからだ。
あの子は、はっきりと覚えている。
全ての公式を。全ての年号を。全ての言葉を。
でも、もう私は、あんなふうにはなれない。遠い。
授業中、先生の話が、なんだかぼんやりして聞こえる時がある。
簡単なはずなのに、頭に入ってこない。
すると、またあの声がする。
『そんなことも分からないの? 前は、すぐ分かったじゃない』
冷たい声。
私の声なのに、私じゃないみたい。
言葉がうまく出てこない私を、「あの子」はいつも、軽べつした目で見ている。
グループディスカッション。あれは、本当に地獄だった。
テーマは「現代社会におけるコミュニケーションの在り方」。
昔なら、いくらでも話せたはずだ。本で読んだこととか、自分の考えとか。
でも、今は無理だった。
頭が、うまく働かない。
みんなの言葉が、ただの音にしか聞こえない。
意味が、わからない。だから、黙っていた。
不意に、一人の子が私に聞いた。
「スノワさんは、どう思う?」
別に、意地悪じゃないのは分かってる。
気を使ってくれたんだと思う。
でも、心臓がドキッとした。みんながこっちを見る。
何か言わなきゃ。ちゃんとしたこと。
でも、頭の中はやっぱり霧がかかったみたいで、何も、出てこない。
焦る。のどが渇く。
「…………別に」
やっと出たのが、これだった。
投げやりで、何の意味もない、馬鹿みたいな言葉。
空気が、シーンとしたのが分かった。
あの子、困った顔してた。傷ついたかもしれない。
ごめんなさい、とかも言えなかった。
その時、私の中で、何かがプツンと切れた気がした。
昔の私なら、絶対に言わなかった。
考えるのをやめたみたいな言葉。
それを、今、私は言ったんだ。
話し合いは、また始まった。
もう誰も、私には聞かない。
私は、そこにいるだけ。いてもいなくても同じ。
一人でいるのは、もう、自分を守るためじゃない。
自分で自分を閉じ込めてるだけ。
そして、その中で、昔の私が、ずっと私を見張ってる。
罰みたいだ。
そして、決定的な日が来た。
国際交流のスピーチコンテスト。
去年、私が優勝した大会だ。
もちろん、辞退した。
今の私に、あんな大勢の前で話せるわけがない。
なのに、先生に頼まれてしまったのだ。
「昨年の優勝者として、今年の出場者にアドバイスをしてやってくれないか」と。
断れなかった。体育館の後ろの方で、こっそり見ていた。
壇上に立っていたのは、去年、私が「発音が少し甘いわね」なんて、心の中で見下していた帰国子女の飯野さんだった。
でも、今日の彼女は違った。
堂々としていて、英語は流ちょうで、スピーチは力強かった。
みんな、彼女の話に聞き入っていた。拍手も、すごく大きかった。
すごいな、と思った。素直に。
その時、近くで、クラスメイトの声が聞こえた。
「それに比べて、スノワさん、最近どうしちゃったんだろうね」
「今日のコンテストも、逃げたのかな」
――逃げた。
その言葉が、私の頭の中で、何度も、何度も、何度も、繰り返された。
逃げた。逃げた。逃げた。
違う。私は、逃げたんじゃない。
でも、でも、でも、今の私には、何もできない。何も、言い返せない。
頭が真っ白で、何も考えられない。
胸の奥から、何か、変なものがこみ上げてきた。
酸っぱくて、苦いものが、喉を焼く。
胃が、ぎゅうっとひっくり返るような感覚。気持ち悪い。
私は、その場から、逃げるように走り出した。
体育館のざわめきが、遠くなっていく。違う。逃げたんじゃない。
でも、どうすればいいのか、もう、わからない。
焦る気持ちに、足がもつれた。
体育館の出口の、すぐ手前。
大勢の生徒が見ている、その真ん中で。
私は、派手な音を立てて、前に倒れた。
床に、手と膝を強く打ち付ける。痛い。
でも、それよりも、周りの視線が、もっと痛い。
驚きの声。くすくす笑う声。
立ち上がれない。身体が、言うことを聞かない。
見ないで。
私を見ないで。
その瞬間、せり上がってきた不快感が、限界に達した。
「ぅ……おぇええっ……!」
喉の奥から、熱い塊が逆流する。
私は、床に手をついたまま、こらえきれずに胃の中のものを吐き出した。
びちゃびちゃと、汚らしい音がひびく。
朝に食べた、栄養バランスだけが考えられた、味気ない食事の残がい。
それが、私の足元に無様に広がっていく。
体育館が、一瞬で水を打ったように静まりかえった。
そして、次の瞬間、誰かの悲鳴にも似た声が上がった。
「うわっ、汚な…!」
「マジかよ、あのアリサ・スノワが…」
侮蔑と、嫌悪と、そしてほんの少しの同情。
あらゆる感情がないまぜになった視線が、無数の矢となって私に突き刺さる。
もう、何も聞こえない。
かつて完璧だった知性も、美しかった身体も、もう、どこにもない。
高い高いプライドも、今、この汚物の中で、こなごなに砕け散った。
何も、残っていない。
何も。
ああ、これで、やっと。
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