努力という名の拷問は、何の結果ももたらさないまま、ただ私の心身をすり減らしていった。

 そして、その最初の「結果」という名の断罪が、容しゃなく私に下される日がやってきた。


 中間試験。

 私にはもう、以前のような絶対的な自信はなかった。

 あったのは、ただ、ここで負けるわけにはいかないという、崖っぷちに追い詰められた獣のような、悲壮なだけの意地だった。

 私は残されたプライドの全てを賭けて、この数日間の戦いに臨んだ。

 持てる力の全てを注ぎ込み、一問一問に、まるで怨敵に挑むように食らいついた。

 試験中も、思考の霧は一向に晴れなかった。

 ペンが何度も止まり、頭の中が真っ白になる。

 焦る。思い出せない。

 分かるはずなのに、言葉が出てこない。

 それでも、私は諦めなかった。

 空欄だけは作るまいと、曖昧な記憶の断片を必死にかき集め、解答用紙を埋めていった。

 アリサ・スノワは、常に結果を出す人間なのだから。

 そうでなければ、ならないのだから。


 しかし、数日後に返却された答案用紙に記された点数は、私のそんな必死の抵抗を、冷ややかに嘲笑うかのように、さんさんたるものだった。

 今まで常に学年トップを維持してきた私の成績は、見る影もなく急落していた。

 かろうじて平均点を上回るのがやっと。いくつかの科目では、平均点すら下回っていた。

 その数字が、現実のものとして理解できない。

 信じられない。信じたくない。

 クラスメイトたちが、それぞれの結果に一喜一憂している。

 その喧騒の中で、私の手元にある答案用紙の束だけが、まるで異物のように重く、冷たかった。


「スノワさん、どうしたんだろうね、今回」

「ちょっと油断したんじゃない? いつもトップだから」

「『氷の女王』も、ついにメッキが剥がれたって感じ?」


 ひそひそと交わされる囁き声が、私の耳に届く。

 その一つ一つが、私のプライドを、無数の焼けた針で容赦なく突き刺していく。

 痛い。やめて。見るな。

 でも、私は何も言い返せない。

 事実、私は「敗北」したのだから。

 誰のせいでもない、自分自身の知性の劣化によって。

 私はただ、無表情の仮面を顔に貼り付けたまま、唇を血が滲むほど強く噛みしめた。

 指先が、悔しさと、そして得体の知れない恐怖で、微かに震えているのを感じた。


 試験の結果は、頭から離れない黒いシミみたいだった。

 クラスの子たちの視線が、前よりもずっと痛い。

 かわいそうだって思われてる? それとも、馬鹿にしてる?

 もう、どっちでもいい。誰の声も聞きたくない。顔も見たくない。


 一人でいるのは慣れてるはずだった。

 でも、今のこれは…違う。冷たくて、重くて、息が詰まる。

 本当に怖いのは、外じゃない。私の中にいる。

 頭の中に、いつだって「昔の私」がいるからだ。

 あの子は、はっきりと覚えている。

 全ての公式を。全ての年号を。全ての言葉を。

 でも、もう私は、あんなふうにはなれない。遠い。


 授業中、先生の話が、なんだかぼんやりして聞こえる時がある。

 簡単なはずなのに、頭に入ってこない。

 すると、またあの声がする。


『そんなことも分からないの? 前は、すぐ分かったじゃない』


 冷たい声。

 私の声なのに、私じゃないみたい。

 言葉がうまく出てこない私を、「あの子」はいつも、軽べつした目で見ている。


 グループディスカッション。あれは、本当に地獄だった。

 テーマは「現代社会におけるコミュニケーションの在り方」。

 昔なら、いくらでも話せたはずだ。本で読んだこととか、自分の考えとか。


 でも、今は無理だった。

 頭が、うまく働かない。

 みんなの言葉が、ただの音にしか聞こえない。

 意味が、わからない。だから、黙っていた。

 不意に、一人の子が私に聞いた。


「スノワさんは、どう思う?」


 別に、意地悪じゃないのは分かってる。

 気を使ってくれたんだと思う。

 でも、心臓がドキッとした。みんながこっちを見る。

 何か言わなきゃ。ちゃんとしたこと。

 でも、頭の中はやっぱり霧がかかったみたいで、何も、出てこない。

 焦る。のどが渇く。


「…………別に」


 やっと出たのが、これだった。

 投げやりで、何の意味もない、馬鹿みたいな言葉。

 空気が、シーンとしたのが分かった。

 あの子、困った顔してた。傷ついたかもしれない。

 ごめんなさい、とかも言えなかった。


 その時、私の中で、何かがプツンと切れた気がした。

 昔の私なら、絶対に言わなかった。

 考えるのをやめたみたいな言葉。

 それを、今、私は言ったんだ。


 話し合いは、また始まった。

 もう誰も、私には聞かない。

 私は、そこにいるだけ。いてもいなくても同じ。

 一人でいるのは、もう、自分を守るためじゃない。

 自分で自分を閉じ込めてるだけ。

 そして、その中で、昔の私が、ずっと私を見張ってる。

 罰みたいだ。


 そして、決定的な日が来た。

 国際交流のスピーチコンテスト。

 去年、私が優勝した大会だ。

 もちろん、辞退した。

 今の私に、あんな大勢の前で話せるわけがない。

 なのに、先生に頼まれてしまったのだ。

「昨年の優勝者として、今年の出場者にアドバイスをしてやってくれないか」と。

 断れなかった。体育館の後ろの方で、こっそり見ていた。


 壇上に立っていたのは、去年、私が「発音が少し甘いわね」なんて、心の中で見下していた帰国子女の飯野さんだった。

 でも、今日の彼女は違った。

 堂々としていて、英語は流ちょうで、スピーチは力強かった。

 みんな、彼女の話に聞き入っていた。拍手も、すごく大きかった。

 すごいな、と思った。素直に。

 その時、近くで、クラスメイトの声が聞こえた。


「それに比べて、スノワさん、最近どうしちゃったんだろうね」

「今日のコンテストも、逃げたのかな」


 ――逃げた。

 その言葉が、私の頭の中で、何度も、何度も、何度も、繰り返された。


 逃げた。逃げた。逃げた。

 違う。私は、逃げたんじゃない。

 でも、でも、でも、今の私には、何もできない。何も、言い返せない。

 頭が真っ白で、何も考えられない。

 胸の奥から、何か、変なものがこみ上げてきた。

 酸っぱくて、苦いものが、喉を焼く。

 胃が、ぎゅうっとひっくり返るような感覚。気持ち悪い。


 私は、その場から、逃げるように走り出した。

 体育館のざわめきが、遠くなっていく。違う。逃げたんじゃない。

 でも、どうすればいいのか、もう、わからない。


 焦る気持ちに、足がもつれた。

 体育館の出口の、すぐ手前。

 大勢の生徒が見ている、その真ん中で。

 私は、派手な音を立てて、前に倒れた。

 床に、手と膝を強く打ち付ける。痛い。

 でも、それよりも、周りの視線が、もっと痛い。

 驚きの声。くすくす笑う声。

 立ち上がれない。身体が、言うことを聞かない。

 見ないで。

 私を見ないで。

 その瞬間、せり上がってきた不快感が、限界に達した。


「ぅ……おぇええっ……!」


 喉の奥から、熱い塊が逆流する。

 私は、床に手をついたまま、こらえきれずに胃の中のものを吐き出した。

 びちゃびちゃと、汚らしい音がひびく。

 朝に食べた、栄養バランスだけが考えられた、味気ない食事の残がい。

 それが、私の足元に無様に広がっていく。

 体育館が、一瞬で水を打ったように静まりかえった。

 そして、次の瞬間、誰かの悲鳴にも似た声が上がった。


「うわっ、汚な…!」

「マジかよ、あのアリサ・スノワが…」


 侮蔑と、嫌悪と、そしてほんの少しの同情。

 あらゆる感情がないまぜになった視線が、無数の矢となって私に突き刺さる。

 もう、何も聞こえない。

 かつて完璧だった知性も、美しかった身体も、もう、どこにもない。

 高い高いプライドも、今、この汚物の中で、こなごなに砕け散った。

 何も、残っていない。

 何も。

 ああ、これで、やっと。

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