二
あの「思考の空白」以来、私は自分の脳の働きに、以前よりも注意深くなった。
それは、精密機械の僅かな異音に耳を澄ませる技術者のようであり、あるいは、完璧な演奏を目指す音楽家が、自身の楽器のコンディションを常に把握しようとするのに似ていた。
些細な体調の揺らぎ。
そう結論付けたはずのそれは、しかし、無視できない頻度で私の日常に影を落とし始めていた。
例えば、歴史の授業。
得意なはずの近代ヨーロッパ史。
フランス革命からナポレオン帝政への移行期における、複雑な政治的背景と主要人物の動向。
以前の私なら、それらの情報を脳内で自在に関連付け、多角的に分析し、教師のどんな問いにも淀みなく答えることができたはずだった。
しかし、今はどうだ。
教師が特定の事件の発生年を尋ねた時、頭の中に、まるで霧がかかったように、明確な数字が浮かんでこない。
(確か……1700年代後半。それは間違いない。でも、具体的には……89年? 91年? 違う、それは……別の出来事だったはずだ)
そんな曖昧な思考が、ぬかるみの中で空転する車輪のように、ぐるぐると渦巻くだけ。
確信を持って答えられない。
隣の席の生徒が、あっさりと正解を口にするのを、私はただ黙って聞いているしかなかった。
悔しさよりも先に、自分の脳の検索機能が明らかに劣化しているという事実に、冷たい汗が背中を伝った。
外国語の時間も同様だった。
何度もノートに書き取り、記憶に刷り込んだはずの英単語のスペルが、いざ書こうとすると、おぼろげな文字の羅列としてしか想起できない。
cとsが入れ替わっていたり、母音が一つ抜け落ちていたり。
まるで、私の脳の記憶領域の一部が、勝手に虫に食われてしまったかのようだ。
かつては、複雑な長文読解でさえ、その論理構造を瞬時に見抜き、作者の皮肉や主張を正確に把握できた。
しかし今は、一つの文節を理解するのに、以前の倍以上の時間を要する。
文字を追う目は滑り、思考は空転し、ただ時間だけが過ぎていく。
頭に、薄いモザイクがかかったような感覚。
視界はクリアなのに、思考だけが不明瞭で、どうしても焦点を結べない。
身体もまた、私の意志を裏切り続けた。
体育の授業、ダンスの単元。軽やかでリズミカルなステップ。
以前の私なら、数回見ただけで完璧に模倣できたはずの動き。
それが、今はどうだろう。
頭では理解している。
右足を出して、次に左。腕を上げて、ターン。
しかし、身体がついてこない。
ワンテンポ遅れ、動きはぎこちなく、鏡に映る自分の姿は、まるで操り方を忘れた操り人形のように滑稽だった。
周囲の生徒たちの、流れるような動き。
その中で、私一人だけが、不協和音を奏でている。
かつて、あれほどまでに誇りだった身体能力。
新体操で培った、あのしなやかさと正確性は、どこへ行ってしまったのだろうか。
これらの「違和感」は、日に日に「現実」へとその姿を変え、私の自信を少しずつ、しかし確実に削り取っていった。
「努力が足りないだけだ」
私は、自分にそう言い聞かせた。
一時的なスランプなのだと。
ならば、さらなる努力によって、この不調をねじ伏せればいい。
それが、これまで私が信じてきた、唯一の勝利の方程式だった。
私は、睡眠時間を削った。
元々、人より短い睡眠でも問題なく活動できる体質だったが、今はそれ以上に時間を惜しんだ。
机に向かう時間を増やし、参考書を隅から隅まで読み返し、ノートにはびっしりと重要なポイントを書き連ねた。
脳が疲れているのなら、さらに負荷をかけて鍛え直せばいい。
そう考えた。
単純明快で、これまでの私にとっては常に正解だったアプローチだ。
しかし。
その努力は、残酷なまでに、裏切られた。
努力すればするほど、私の脳が、私の意志とは無関係に機能不全に陥っているという事実を、私は嫌というほど痛感させられることになった。
覚えようとすればするほど、知識はまるで乾いた砂のように、指の間からこぼれ落ちていく。昨日覚えたはずの公式が、今日にはもう曖昧になっている。
一度理解したはずの概念が、翌日には再び靄のかかったものに戻っている。
問題を解こうとすればするほど、思考のモザイクはますます濃くなり、論理の道筋を見失う。
かつては一瞥しただけで解法が閃いたはずの問題が、今はただの不可解な記号の羅列にしか見えない。
焦りが募り、呼吸が浅くなる。
どうして、解けない。なぜ、分からない。
そして、私の頭の中に、あの声が響き始めるようになった。
冷たく、明晰で、どこまでも正しい、昔の私の声。
『どうしたの、アリサ。そんな簡単なことも分からないの? 以前のあなたなら、一瞬で理解できたはずよ』
うるさい。黙って。
私は、今、集中している。
でも、声は消えない。
『無駄な努力ね。考えるのをやめたの? あなたが最も軽蔑していたことでしょう?』
違う。私は考えている。必死に。
なのに、どうして。
夜中、誰にも見られないように体育館の隅で練習をしても、同じだった。
身体は重く、イメージ通りに動かない。ターンでバランスを崩し、リボンが情けなく床に落ちる。
その度に、幻聴のように、あの声が私を責め立てる。
『見なさい、その無様な姿を。あれほど美しかったあなたの動きは、どこへ行ったの?』
『こんな身体、もはや何の価値もないわ』
やめて。
やめて、やめて、やめて。
私の「努力」は、もはや成長のための糧ではなかった。
それは、自分の知性と身体が、確実に劣化していく様を、一分一秒、リアルタイムで観測し続けるための、耐え難い拷問と化していた。
努力すればするほど、私は自分が壊れていく過程を、最も冷静な、そして最も絶望的な観客として見つめるしかなかったのだ。
私が私でなくなっていく。
その恐怖が、冷たい霧のように、私の心をじわじわと蝕んでいく。
この城壁は、もう、私を守ってはくれないのかもしれない。
それどころか、この壁自体が、私を閉じ込める牢獄に変わりつつあるのかもしれない。
そう、感じ始めていた。
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