氷の女王

Vii

 私の日常は、寸分の狂いもなく設計された、完璧な秩序の中で進行する。

 これは怠惰から来るものではない。むしろその逆だ。

 緻密な計画と自己への厳格な要求によって、意図的に構築された城壁であり、私が私であるための絶対的な法則である。


 午前六時〇〇分。

 体内時計は、高価なクロノメーターよりも正確に私を目覚めさせる。窓から差し込む朝の光は、今日も計算通りの角度で床に幾何学模様を描き出している。

 まず行うのは、三〇分間のストレッチ。一つ一つの筋肉の動き、関節の可動域、呼吸のリズム。

 そのすべてが、私の完全な統制下にある。

 私の身体は、私の意志を寸分の誤差もなく遂行する、忠実な僕でなければならない。


 身支度を整え、食卓につく。

 栄養バランスが厳密に計算された朝食を、決められた時間内に終える。

 これもまた、一日最高のパフォーマンスを発揮するための、必要不可決な儀式に過ぎない。


 通学電車の中は、私にとって思索の聖域だ。

 イヤホンからはノイズキャンセリングの静寂が流れ、手元にはドストエフスキーの『地下室の手記』が広げられている。ロシア語の、濃密で粘着質な言葉の連なりが、私の思考を深く、鋭く研ぎ澄ませていく。

 人間のグロテスクなまでの自意識の深淵、その矛盾と苦悩。これを理解できる人間が、この車両に、いや、この学校に果たして何人いるだろうか。

 おそらく、一人もいない。それでいい。理解されることを、私は求めていない。


 授業が始まれば、それはそれで悪くない。

 例えば、現代文。

 いささか感傷的に過ぎるきらいのある教材文も、私にとっては解剖の対象だ。論理構造を分解し、作者の無意識の意図を正確に読み解き、レトリックの裏に隠された欺瞞を暴き出す。

 その作業は、複雑なパズルを解くような、純粋に知的な興奮を伴う。

 教師が私の意見に「なるほど、スノワさんの解釈は鋭いね」と感嘆の声を漏らすのは、予定された結果の一つに過ぎない。

 別に、褒められたいわけではないのだ。

 ただ、私の思考が、この陳腐な教室の中で唯一、正しく機能していることを確認するだけの作業である。


 放課後は図書委員の仕事。

 これも、私にとっては苦ではない。

 膨大な蔵書の中から、生徒たちの曖昧で非論理的なリクエストに応じた本を探し出すのは、一種のデータベース検索に近い。

 「なんか泣けるやつ」というキーワードから、対象者の過去の貸出履歴、国語の成績、所属部活などのパラメータを照合し、最適解としてトルストイの短編を提示する。

 人間関係のウェットなやり取りより、よほど合理的で性に合っている。


 仕事を手早く終えれば、あとは私のための時間だ。

 向かうのは、体育館の片隅にある、今は使われていない多目的スペース。冷たいリノリウムの床が、私の聖域。

 誰の視線も届かないこの場所で、私はもう一つの自己と向き合う。


 取り出した一本のリボンが、宙に紫色の軌跡を描く。

 私の身体が、思考と寸分の狂いもなくシンクロする。しなやかな跳躍、寸止めされる回転、重力を感じさせないバランス。汗が、思考の澱を洗い流していく。

 肉体の限界点で精神を研ぎ澄ませるこの行為は、机上の学問とは異なる、もう一つの全能感を私に与えてくれる。

 思考と身体が完全に調和し、一つの完璧な運動法則として結晶するこの瞬間、私は世界の法則そのものになるのだ。


 『氷の女王』。

 誰かが私をそう呼んでいるのを、知っている。

 結構なことだ。

 馴れ合いや共感といった、非効率で感情的なやり取りに時間を浪費するくらいなら、私は孤高の頂を選ぶ。他人からの評価など、私の価値を何一つ規定しない。

 私の価値は、私自身が結果で証明する。それだけだ。


 ……ただ、ふとした瞬間に、この完璧に制御された城壁の、その硬く冷たい感触に、言いようのない虚しさを覚えることがあるのも事実だった。

 リボンを握りしめ、舞を終えた後の静寂の中、脳裏に浮かぶのは、遠い過去の情景。まだ私が、「完璧」という鎧を身に纏う前の、弱く、不完全だった頃の記憶だ。


 雪の日だった。

 ロシアの凍てつくような冬とは違う、湿り気を帯びた日本の雪。

 物珍しさにはしゃぐクラスメイトたちの輪から、私は少し離れた場所にぽつんと立っていた。両親の仕事の都合で、この見知らぬ国の、見知らぬ田舎町に放り込まれて、まだ数ヶ月。

 言葉は、辞書を片手になんとか覚えたが、その言葉に感情を乗せる術を知らなかった。


「……いっしょに、あそんで、いいですか?」


 勇気を振り絞って紡いだ言葉は、ひどくぎこちない音の羅列となって空気に溶けた。

 一人の少年が振り返り、私の顔をじっと見て、そして、噴き出した。その笑いを皮切りに、数人が私を指差して笑い始める。

 何がおかしいのか、私には理解できなかった。

 ただ、その笑い声が、見えない針となって私の胸に突き刺さった。


 その夜、私は泣きながら、家の鏡の前で何度も発音を練習した。

 完璧に。非の打ち所がないほど完璧な日本語で、もう一度お願いしよう。

 そうすれば、きっと。


 翌日。

 私は練習の成果を披露した。昨日よりずっと流暢に、正確に。

 しかし、返ってきたのは笑い声ですらなかった。

 ただの、冷たい無視。

 まるで、私がそこに存在しないかのような、絶対的な無関心。


 ああ、そうか。

 完璧な言葉だけでは、ダメなのだ。

 私がここにいること、その存在自体が、彼らにとって異物でしかないのだ。

 その瞬間、私の中で何かが決定的に変わった。

 他者に期待するのは、無意味だ。

 理解を求めるのは、愚か者のすることだ。

 ならば、私は私一人の力で、この世界に自分の価値を刻みつけてやる。誰にも文句を言わせない、圧倒的な「結果」によって。


 そこからの私は、文字通り狂ったように自己を鍛え上げた。

 勉強に没頭し、中学に上がる頃には、学年で私の右に出る者はいなくなった。

 言葉を必要としない自己表現を求め、門を叩いた新体操のクラブでは、血の滲むような練習の果てに、県大会の表彰台の最も高い場所に立った。


 知性。そして、身体性。

 この二本の柱によって築き上げられた「アリサ・スノワ」という自己像。

 それこそが、あの雪の日に見捨てられたちっぽけな私を救う、唯一の手段だった。

 私の孤独を、誇りへと昇華させるための、唯一の道だったのだ。

 だから、私はこれでいい。

 この冷たく、静かで、完璧な秩序の中で、私はこれからも生きていく。

 誰にも頼らず、誰にも心を許さず、ただひたすらに、頂点を目指して。

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