花天月地【第63話 愛と復讐は染み込んで行く毒】

七海ポルカ

第1話



賈詡かく将軍、李典りてん楽進がくしん将軍が帰還されました」



 祁山きざんの麓に陣を取った、魏軍を少しだけ見下ろせる山中にいた賈詡かくは振り返る。

 副官が二人を連れて来た。


「賈詡殿、ご苦労様です」

「やあ二人とも、ご足労いただいて。

 申し訳ないね。こんな雨の中。上の方でびっくりしなかったかい」


「びっくりしましたよ。あんなに天気良くてなんだ言うほど涼州の気候も悪くないな、なんて話してたらこんなに降りまくるんだもの」


 李典は雨に辟易しているようだ。

 だが楽進の目は輝いている。

 恐らく、築城の任務は退屈だったのだろう。

 新しい任を与えて貰えると思って意気揚々と降りて来た感じだ。

 楽進のこの気質が、ムラ気のある李典がダレた時に引きずり上げてくれる。

 そして楽進も楽観的過ぎる所があるので、頭が回る李典がいると程よく緊張感を保つことが出来る。

 

 この二人は初めて見かけた時からこんなものだったが、涼州に来てからもそれはあまり変わらないようだ。


 ふと、めまぐるしく変動する涼州情勢の中、妙に取り残されていた祁山に潜伏しても、思ったより弱っていない感じの二人を見て、賈詡は思い切ってこの二人を死線に近いところに一度放り込んでみるのも面白いかもしれないな、と思った。

 極限状態でこの二人の、足りない部分を補うような天秤がどっちに傾き、生きるか死ぬかならどっちが相手を引きずって戻ってくるのか、それはそれで見物である。


 若い二人はまだ死線に放り込まれたことがない。

 賈詡は李典と楽進の性格のもっと深い、醜い部分が見たくなった。

 そしてその醜さの中に武将としての侮れない、見所のある要素を見つけられたら楽しいものだ。


「……? なにニコニコしてこっち見てるんですか。賈詡殿」


「いや。君たちが思ったより元気そうでね。その感じならもっと厳しい戦線に思いきって放り込んでみるのも面白いかなと思ってさ」


「重要な任務を任されるのは光栄ですけど、そういう先輩の思いつき一つみたいなことで死にそうな任務任されるのはちょっとなあ……。楽進目を輝かせるなよ」


「君たち二人の本気ってやつをまだ俺は見たこと無いからさ。

一歩間違えれば自分も自分の部下も死んでしまうみたいな危険地帯に放り込んだ時に、君たちが二人でどう力を合わせて、或いは相手を見限って自分だけでなんとかしなきゃならねえって腹を括って動き出すのか、まあそんなとこを一度見てみたいなあ。

 死んじゃうかもしれないけど、生きて戻ったら色々これからの君たち二人の使いどころみたいな幅増えると思うんだ」


「死んじゃうかもしれないけどってサラッと酷いこと言いますね……」


 李典が半眼になって呆れている。

「いや誉めてるんだよ。雨と雷に打たれまくって正直都会育ちの君たちもっと涙目になってると思ってたし風邪引いてるかなと思ってたから」

「まあ気候が厳しいって何度も聞かされて覚悟はして来ましたから。備えもして来ましたし、何とかなります」

「いいね。李典君。きみはもうちょっと、これだけ晴れ間が続いたら言うほど涼州の気候大丈夫だなとかすぐ安心するようなお調子乗りなのかと思ってたけど、緊張感勝手に抜かない感じすごくいいよ」

「誰がお調子者なんすか」

「この先、楽進が目を輝かせる余裕もなくなって死んだ魚の眼みたいになるような絶望の状況が来た時は、ぜひ君のその冷静な精神で彼を引きずって本陣に帰還させてやってくれ」


「いや、無理無理! 無理だから! 俺が頑張れるの楽進が暢気に目を輝かせてる状況までですって! こいつがいよいよ追い詰められて死んだ魚の目になったら俺も絶対余裕なんかなくなるから! 頑張れない!」


「そんなこと言わないで頑張ってよね。すっごい期待してるからさ」


「…………俺達今から一体何させられんの? 嫌な予感しかしないんだけども……」

「いや大丈夫。別に今からさせようってことじゃない。今後の話だよ」


 号令が聞こえた。

 楽進と李典が歩み寄って来る。

 すぐ下に魏軍の陣が見下ろせる。

 平地に整列している部隊があった。

 張遼ちょうりょうの軍だ。

 出陣していく。

 しかしいつものように猛然と駆けて行くという様子ではなかった。


「張遼将軍は出陣……ですか?」


 楽進が首を傾ける。

「一応な」

「書簡には複雑な事になったって書いてありましたが」

「うん。色々起こってる。すまんな報告出来ずに。こっちも色々バタバタしてて」

「いえ……それは構わないのですが……」

「どこから話せばいいか、迷う所なんだが、出来るだけ分かりやすく簡潔に要点を言う。

 韓遂かんすいが本拠地の金城きんじょうで暗殺された」



「「えっ⁉」」



 李典と楽進が仲良く声を揃えた。

「んで涼州騎馬隊がいきなり襲いかかって来ただろ。あれはどうやら金城を襲ったのが俺達魏軍のせいだと思って出てきたらしい。

 韓遂の殺され方が以前、潼関とうかんの戦いで涼州騎馬隊の長だった馬騰ばとう達を処刑して晒した魏軍のやり方と同じだったからだ。

 しかし、二人は分かってると思うが俺達の仕業じゃない」


「そ……」

「ここで、俺達はとりあえず二つの選択肢がある」


 静かに出陣していく張遼軍を見送りながら、賈詡は続けた。


「騙されてノコノコ出て来やがった涼州騎馬隊を、この機に一網打尽にする。

 ――それか、とにかく一旦停戦する為に奴らと接触し、金城きんじょうの所業は俺達の仕業じゃないと説得し、休戦に持ち込むかだ」


「彼らは韓遂殿の遺体を見て出陣して来たのですか?」


「ああ。陥落した城と遺体。それから近隣の村も幾つか燃やされてるのを見て来たらしい」


「何を突然殺気立って出て来たかと思ってたけど、そういうことだったんですね」

「我々の所業じゃないのは分かりましたけど、じゃあ誰が韓遂殿を暗殺したんですか?」

「それが分からんのだよ。

 どこの誰だか分からんが――難攻不落の金城きんじょうの城を周辺の奴らに悟られないような手勢であっという間に落とし、魏軍の所業だと涼州騎馬隊に思い込ませて、俺達にぶつけてきた奴がいる」


「……他の二国の間諜ですかね?」


 李典りてんは思いの外、冷静だ。

 城にいると目ぼしい才能をあまり見せない男だったが、戦場ではなかなか豪胆な所を見せることは、賈詡にとって新しい発見だった。

 李典は多少反抗的なところがあるので、ぬるま湯に浸からせていると本気を発揮しない。

 本人は怠けたがっても、戦場に置いて強制的に働かなければならない状況に置くと、案外真価を発揮するのかもしれない。


定軍山ていぐんざん】を郭嘉かくかが気にしていた。


 涼州を押さえたら、定軍山は対蜀の最前線になる。

 文字通りの死線だ。

 涼州に共に出陣する前までは、李典には務まらない格の戦場だと考えていたが、今は少し天秤が傾いた。

 李典は経験が浅いのでまだまだ戦場で失敗をするだろうが、それで生き残って来れば経験を素早く糧にするたちなのかもしれない。


 経験を積んだ時にそれが李典の強みになるのか、弱みと足枷になるのかは現時点では分からない。賢ければ経験を生かせるし、深く考えることが出来ない人間ならば、積んだ経験がかえって怯えや、間違った道へ迷い込ませることにもなる。

 しかし学べる性格はしている。

 失敗を恐れる心も持っているし【定軍山ていぐんざん】派遣は一種の賭けだが、李典に深みが出て来たら、面白いかもしれない。


「可能性はあるが、確証はない。

 郭嘉は違う可能性を見ていて、

 司馬懿しばい殿はあまりそのことには拘っていない。

 俺はどっちかというと、司馬懿殿寄りだ」


「それはつまり……」


徐庶じょしょが涼州の友人を連れて来た。

 黄巌こうがんと言って、涼州騎馬隊とは関わっていないが涼州の民だ。

 このあたりの地理に聡く、涼州騎馬隊とは違う、護衛や運び屋のような仕事を担う、警護団のような組織に関わってるらしい。

 彼らは特殊な鳥を使って山岳地帯でも連絡を取り合えるそうだが、この雨が邪魔してる。

 とにかく近隣の村から涼州騎馬隊に連絡を取れないかと今、徐庶は南へ黄巌と向かってる。

 この長雨は三日くらい続きそうだから、とにかく三日はこっちからは打って出ないと一応、黄巌には話してある」


「一応って今言いましたよね」


「別に騙してるわけじゃない。黄巌にも話したよ。

 第一に、涼州騎馬隊が突然現れたのは確かに驚いたが、もともと奴らがどこにいるかを探り出したかった。

 第二に、築城の邪魔にならないように北方に封じ込めたかった。

 第三に、最終的には、魏軍にあくまでも抵抗するなら、北から引きずり出して殲滅するのも目的の一つだった。

 つまり勝手に出てきた奴らを、引きずり出す手間が省けたようなものだからな。

 奴らが襲撃に現れたこと自体が、全て魏軍にとって都合が悪いわけじゃないというわけだ」


「彼らは今、どこに?」


 楽進がくしんの表情からは、明るさが消えた。

 

 李典の深みがもっと見てみたいと言うならば、

 賈詡は、楽進という武将の『暗さ』をもっと見てみたいところがあった。

 清濁をどれだけ飲み込めるか。

 楽進は人がいいので周囲にも人がいい人間が集まるし、楽進を尊重するような人間が多い。

 しかし場合によっては非道なこともしなければならないのが戦場の指揮官だ。

 楽進がどこまで非情になれるのか、知りたいという欲求はある。


(もっとも、どこまで非情になれるのか、知りたい人間はもう一人いるが)


 黄巌こうがんと一緒に出て行った徐庶を思い出した。

 三日間の猶予をくれ、涼州騎馬隊と連絡を付け、停戦を取り付けると言った友について行った。


 ――率直に言うと、ああいう所があいつの愚かさだ。

 正しいと思ったら口に出してしまう。

 涼州を敵と見ていないから、ああいう言動が出る。

 まあ完全なる敵ではないと言って出て来たのだから仕方ないとはいえ、曹操が招いた徐庶を使わなかった理由が、賈詡は何となく分かった。

 

(あいつからは裏切りの気配がする)


 に完全な忠誠心を誓わないこと、即ち、そういう裏切りの気配だ。


 涼州に思い入れがあったとして本当に賢い、狡猾な人間なら、ああいう時に自分も共に行くなどと口に出さないのだ。

 黙って黄巌こうがんを見送り、その後に様子を見に行きたいという別件として、司馬懿や自分に持ちかけるのが賢い男のやり方だ。

 

 黄巌や涼州に思い入れを見せたことで、徐庶は司馬懿や自分に不信感を抱かせた。

 魏軍の軍事行動に不満を抱くだろうという確信を。


 ああいう男は戦場では使いにくい。

 

 しかし張遼ちょうりょうも涼州騎馬隊を率いて出て来た龐徳ほうとくには同情的に見えた。

 黄巌を評価していたし、説得してみると言ってああやって出て行っている。

 だが張遼に裏切りの気配は全くしないのは何故なのか。


 楽進があの場にいなかったのが惜しいところだ。

 黄巌こうがんと共に行くと言った徐庶に、楽進がどういう反応を見せるのかを知りたかった。


(まあ、今聞いても遅くはないけどな)


 賈詡かくは楽進を見る。


「それが今は不明だ。

 一度張遼軍とぶつかってから、奴らは方々に散って南の山岳地帯に潜伏したが、動き続けていると俺は見てる。

 西の山岳地帯を北上して北に戻っているのか、魏の前線を突破して南へ向かっているのか、はっきりと断定は出来ない。

 黄巌にもそれは分からないようだ」


「しかし金城きんじょうが焼かれても他の豪族の所領はあるのだから……家族や土地を捨て、涼州騎馬隊だけで南へ向かうでしょうか?」


「分からん。南へ向かい、蜀の劉備に同盟を取り付けて、再び北に戻るという考え方も出来る」

「なるほど。確かにそうですね」

黄巌こうがん殿と徐庶殿が涼州騎馬隊と停戦を取り付けたら、どうなるんですか?」


「考え中だ。そのことで、あとで司馬懿殿にも呼ばれてる。

 お前達二人は今突然色々聞いたから、頭がこんがらがってると思うが。

 一応どうしたいか希望があれば聞くぞ。勿論希望に添えるかどうかは分からんが」


「希望というわけではないですが、黄巌殿と徐庶殿が涼州騎馬隊と接触したあと、相手の出方次第でこちらの対応を検討しても、遅くは無いのでは?」


 李典が言った。


「今までは奴らが神出鬼没で、どこから、いつ襲いかかって来るのかが問題でしたが、姿を現したなら一つの問題は片付いた。

 魏軍はもう奴らには恨まれてるし、俺は魏軍の所業じゃないと言い張っても、奴らが我々に気のいい顔を途端にするとは思いませんけど」


「それは決着をつけたいと言ってるのかな李典」


祁山きざんから、平地で動く涼州騎馬隊を見ました。確かに騎馬隊としては優れているのが分かりましたが、姿を見てない時の方がずっと手強く思えた。

 涼州騎馬隊殲滅は曹操殿の代からの悲願でもありましたし。

 目標を達成出来れば、涼州築城に匹敵する戦果だと思います」


「実のところ今は北方がガラ空きだと見て、君たち二人を呼び戻したのは、一度北に行ってもらおうかと思ってのことだ。

 築城は一旦中断してね。

 司馬懿しばい殿と俺が黄巌こうがん徐庶じょしょに期待しているのは、涼州騎馬隊の正確な居所を突き止める所までだ。

 奴らがこの辺にいるなら、お前達を北方の視察に差し向けたいと考えてる。

 もし涼州騎馬隊がすでに西の山岳地帯を迂回し、北上を終え、領地に戻っているならお前達には荷が重くなる。その場合は張遼殿に一軍を預け送り込もうと思っているが、お前達に迷いが無いなら、張遼将軍に付けてもいい」


「俺はどちらでも構いません。涼州騎馬隊と戦う覚悟でこの地には来てる」


 李典が言った。


「そうか。分かった。楽進はどうだ。涼州騎馬隊をどうすべきだと考えている?」

「……張遼将軍が出て行かれましたが、あれはどういう動きなのですか?」


「涼州騎馬隊の正確な位置がまた分からなくなったからな。

 北の平地にもう一度誘き出そうとして、向かった。

 張遼将軍は龐徳ほうとくと剣を交わした。奴らの怒りが並々ならないことは感じ取っておられたから、とにかくもう一度龐徳と会って話がしたいのだろう。

 安心しろ。あの御仁は自分達が誘き出されたと知っても龐徳が魏軍に剣を向けるなら、斬ることに躊躇いなど見せない人だ」


「はい……」


 楽進は少し考えたようだ。

 足下に下げていた目を上げて、賈詡を真っ直ぐに見た。


「私も、北に派遣していただいて構いません。

 涼州騎馬隊と戦うことになっても結構です」


 楽進は言った。


「我々が何と言おうと、涼州の人々にとっては我々は侵攻軍です。

 例え真実が分かっても、涼州騎馬隊が目先での魏軍の築城を良いと見逃すとは考えられません。

 いずれにせよ、戦って蹴散らさないと魏の脅威は無くならないと思います。

 賈詡殿。

 涼州をもし魏に併合出来れば、それは必ず魏の利になりますか」


 賈詡は楽進の肩を軽く叩いた。


「魏の利というより、蜀と呉の脅威になる」


 楽進の目が輝いた。


「私は赤壁ではろくな働きが出来ませんでした。

 ですから、この涼州遠征では魏の為になる働きを必ずしたいと思っています!」


 楽進の返答は心地良かった。

 外界の理由が全く関わってないのがいい。

 

 戦功を立てたい。


 その純粋さだけで楽進がくしんがどこまで戦える男なのかは、楽しみだ。


「そうか。二人の考えはよく分かった。

 丁度いい、あとで司馬懿殿の幕舎に行くから、付いてきてくれ」


「司馬懿殿は今のところは涼州騎馬隊と戦うことを?」


「いや。そういう考えはあるようだが、まだなんとも言えん。

 あの人は涼州騎馬隊がどうのとかいう次元で考えてない気がする。

 それこそ涼州騎馬隊を封じたあと、どう涼州を押さえ、そうなった時に蜀と呉に与える影響のことを重視しておられるようだ。

 まあ、いずれにせよ、涼州は三国の勢力を大きく動かす天秤の一つだ。

 考えたくなくても考えざるを得ないんだけどな」


「先程……郭嘉かくか殿は蜀と呉の間者以外の可能性を見ていると仰いましたよね」


「というより涼州騎馬隊に火を付けてまんまと誘き出して、俺らにぶつけてきた奴に興味が湧いたみたいだね。

【北の悪魔】をどうにかしないと、築城をしたって寝首を掻かれることになるってさ」



「【北の悪魔】……」



 李典と楽進が顔を見合わせた。

 賈詡が歩き出す。


「とにかく司馬懿殿との軍議までもう数時間ある。

 二人の幕舎は用意してあるから、少し休んで来ていいよ。

 まあ涼州騎馬隊が襲撃して来る可能性はあるんだけどな。

 ただ祁山きざんの麓は押さえてるから背後は突かれない。それが分かってるだけでも随分違う。

 しっかり山腹に見張りは置いて来たか?」


「はい。東西南北に張り付けてきました。簡易的ですが斜面に馬防柵ばぼうさくも立てたので、万が一にも山腹の陣を取られることはありません」


「よし、ありがとう」


 陣まで下りて来た。


「しかし、本当に打って変わってよく降りますね……」


 李典が呆れるように言ったが、賈詡かくは笑った。


「いや。俺に言わせて貰えば今までが異常に晴れすぎてたんだよ。

 秋から冬に変わる季節の変わり目なんていつもこんなもんだ。

 長雨が来て、晴れると突然気温が下がって雪が降るようになる。

 あとはずっと雪が降りながら曇ってる」


「雪ですか……かなりの積雪になりますか?」

「なるねえ。だから涼州遠征は冬にやらないのが定石なの」


「では涼州騎馬隊も、この時期の魏軍の遠征には驚いたのでは?」

「驚いたって黄巌殿は言ってたね。

 このあたりの民衆も全然俺達が来たこと知らなかったみたいだしな」


「じゃあ……蜀と呉にも我々の冬の涼州遠征は驚きなのでしょうか?」


 李典と賈詡が、楽進を振り返る。


「?」

「楽進はなかなか鋭いこと言うね。無意識なんだろうけど」

「そうなんですよね。何にも考えてないみたいな顔で核心突いてくることがあります」


郭嘉かくか大先生が気にしてんのはそれか」


「他の季節なら予め間諜を潜ませておくとかは出来るけど……そもそも魏軍の冬の涼州遠征が予想外だから」

「他の戦線も安定してるってわけじゃないしな。こんなところに、城を一つ落とせるような暗殺部隊を博打のように派遣するくらいなら他に送り込んだ方がまだいい。

 そもそも赤壁せきへきで魏軍は大敗してるから、この冬は戦力を回復させることに専念すると敵は見ていたはずだ」

「俺達自身でも遠征は春とかだと思ってたしな」

「はい」


「そう考えると、やはりこの季節に遠征を早めた司馬懿殿の決断の勝利なんだろうが、尚更そうなるとこの展開は面白くないんじゃないかな? 折角敵の裏を掻いたのに邪魔する奴がいるんだから」


「司馬懿殿はどのような感じなのですか。その【北の悪魔】については」

「不気味なほど気にしてない」

 賈詡は苦笑した。


「あんまり今まであの人のことは知らなかったが、やはりちょっと彼も独特な人だよね。

 俺はもうちょっと何でも自分の思い通りにしたい、神経質なところがあるのかと思ってたよ。しかし実際は細かいことにあんまりグダグダ拘らない人だ。

 二、三策が潰されても、案外ケロッとしてるところがある。

 見た目よりずっと豪胆なところがあると思うが……曹操殿なんか、好きそうな軍師に思えるんだがなぁ……、なんであんなに毛嫌いしてたんだろうか」


「前に聞いたことがありますよ。司馬懿殿は長安に来られる前は、もっと異なる印象だったと同僚が言っていました。何というか、以前はもう少し暗いような所があったらしく。

 その感じが曹操殿の気に障ったとか。仕事熱心でも無かったようですし」


「俺も曹操殿から遠ざけられても、左遷されたみたいな仕事を怒りもせず淡々とこなしてたってのは聞いたことがあるが」


「いえ、その前からあまり仕官の意志が無かったようなのです。野心のようなものが。

 司馬家といえば有能な人材がたくさんいて、それぞれが野心的であると評判でしたが、その中でも司馬懿殿は異質だったらしく」


曹丕そうひ殿下こそ自らの主君と思い定めて、心を入れ替えられたということでしょうか?」


「心を入れ替える、ねえ……。そんなもん、一番あの人に似合わない言葉のような気がするが……」


 確かに司馬懿の噂は以前から聞いていた。

 実際共に遠征をして非凡さや油断出来ないような、鋭利な性格を感じてはいるが、ムラ気が多く、忠誠を見せないなどという噂も賈詡は一時、聞いたことがあった。

 曹丕の許に召し出されたあとも常に勤勉だったわけではなく、一時期出仕もせず乱痴気騒ぎをしていたなどという噂すら立っていた。

 異質といえば、確かに異質ではある。

 

 一体いつから司馬懿は野心的で狡猾で、勤勉な策士の顔を見せるようになったのだろう?


 そんなことが突然気になった。



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