第2話 本は君に危害を加えたのかい?

気づけば、僕は本を持って、外に出ていた。

夜の冷えた空気よりも、内側からこみ上げてくる不安の方が、ずっと背筋を凍らせる。

あてもなく歩き続け、ようやく足を止めたのは、公園だ。


春先のぬるい空気に体に溜まった熱を吐き出すうちに、最低限の思考が戻ってくる。

自分でも何をしているか分からない。

自分自身に呆れて、来た道を引き返そうとしたその時、視界の端に、色が写る。

視界の先、ベンチに座る女性に目が止まった。

わざとらしい黒く、短い髪。

どこか遠いような美しさ。

しかし何より目を引くのは、嫌に見覚えのある、手元の真新しい純白の本。


彼女は無言で、淡々とページをめくっている。

その本の表紙が、あまりにも自分の見たものに似ていた。

呼吸が浅くなり、途端に肺腑を直に握られたような息苦しさが、僕の口をふさぐ。

整えたはずの呼吸が荒くなり、鼓動が早まって、視界が狭まる。



「その本、どこで手に入れたんですか?」


息も絶え絶えに声を絞り出す。

彼女は一瞬顔を上げ、僕を見た後、ゆっくりと微笑んだ。


「これかい?」


そう言って、彼女は本に少し視線を落とす。


「ああ、これまでの私が書かれているんだよ」


その言葉を耳にした瞬間、僕は全身から冷たい汗が吹き出していくのを感じた。


「…は?」

一瞬の沈黙の後、言葉の意味がしみ込んでくる。

遅れて言葉の意味を理解し、僕の思考は混乱の渦に放り込まれた。


「何なんですか、この本は?どうして…誰が、どうやって、過去が…こんなに…?」


挨拶も礼儀もかなぐり捨て、疑問を文章にする前に言葉そのままに投げつけた。

そして、ようやく我に返ったとき、彼女は無言で本を閉じ、薄く口角を釣り上げて、僕に微笑みかけた。


「本っていうのはね、誰かが書いて、誰かに読まれるために存在するんだよ。

それが記録だったり、想像だったり、祈りだったりするけれど、情報を誰かに伝えるという性質だけは変わらない。」


黒々とした瞳が、じっと僕を覗き込んでくる。

その声は異様に朗々としていて、溶けるように僕の頭をクラクラさせた。


「その本は、君に危害を加えたのかい?」


彼女は僕の手元に視線を落とし、諭すように言の葉を紡ぐ。


「わからなくて当然だよ。けれど、“わからない”ということが、君を傷つけたわけじゃない」


彼女はパタンと自分の本を閉じて、彼女は背を向ける。


「どうして怖いのかを見つめ直してごらん。

そうすれば、見えてくるものもあるはずだよ」


唖然と立ち尽くす僕を残して、彼女は静かに、公園を後にした。

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