異界喫茶「月影」のレシピ
とーわとわ
第1章 死んだはずの僕と、不機嫌な猫のマスター
目の前で、カップが小さく震えた。仄暗い店内のカウンターには、熱い紅茶の香りがほんのりと漂っている。けれど、僕の手は震え続けていた。
なぜなら――
「……ここは、どこですか?」
僕の問いに、答えはすぐには返ってこなかった。
棚の奥、赤い瞳と黒い毛並みの猫が、僕をじっと見ている。いや、猫の仮面をかぶった人間……なのだろうか。人の形をしているが、尻尾が椅子の足をしなやかに撫でていた。
「お客さん。『死んだ』って自覚はある?」
低い声が、カウンター越しに落ちてきた。
僕は反射的にポケットを探した。スマホは無かった。財布も無い。ただ、右手の甲に黒い痣のような印だけが刻まれていた。
「……え?」
「ここは“界(さかい)”の喫茶店。お前さんはたぶん、事故か何かでこっち側に来ちまったんだろうな」
猫のマスターは、淡々とそう言った。
頭がぐらぐらした。それと同時に、昨日までの記憶が薄れていく。
「死んだ……俺が?」
「まあ、そう慌てるな。うちでは“暫定的な死者”を扱っている。お前さんみたいな、未練やら疑問やらが残っている奴をな」
僕は再び目の前の紅茶に視線を戻した。ほんのりと薫るスパイス。どこかで嗅いだことがある、懐かしい匂い――。
「あの、帰る方法は?」
「一杯、飲み干してみろ。お前さんの『望み』が見えるかもしれない」
カウンターに立つ猫のマスター――店主は、不機嫌そうに尻尾を揺らした。
僕は、震える手でカップを取り、ゆっくりと口へ運ぶ。
そして、熱い紅茶を喉へ流し込んだ瞬間。
『――ユウト! やめて、戻ってきて!』
遠い声が頭に響いた。名前、誰の声だった? まぶたの裏に、涙ぐむ少女の顔がぼんやりと浮かぶ。
紅茶の味の中に、かすかに感じたのは――後悔と、まだ言えなかった「さよなら」だった。
◇
「ふむ、悪くない顔色になったな。ここからが本番だ」
猫のマスターは、そっと店の奥を指差した。
「お前さん次第で、この“界(さかい)”の扉は開く。まずは……自分の望みを思い出せ」
仄暗い木造の店内で、僕はゆっくりと立ち上がった。
死と生のあわいで、僕の物語が静かに始まろうとしていた。
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