【コミュ障オタク恋愛短編小説】404 Not Found ―見つからない結末の、見つかった恋
藍埜佑(あいのたすく)
序章:私の世界は45デシベルで完結している
私の世界は完璧な静寂に満ちている。
それは音が全く存在しないという意味ではない。
逆だ。
私の周りには常にノイズが渦巻いている。だが私のシェルターであるこの部屋、このデスクの前だけが唯一、完璧な静寂が許される場所なのだ。
キーボードを叩く規則正しいタイプ音。
Cherry MX Blueメカニカルスイッチが生み出す、毎秒45デシベルの心地よいクリック音。
CPUファンが微かに唸るホワイトノイズ――これは正確には1/fゆらぎと呼ばれる、人間の心拍に近い周波数を持つ音だ。
それ以外の予測不能な不規則な音は全てシャットアウトする。
宅配便のチャイム、電話の着信音、そして生身の人間の感情が乗った不快な声さえも。
現実世界での私のステータスだ。
だが本当の私はそんな陳腐な世界には存在しない。
そう、私はここにいる。
ウェブ小説投稿サイト「NOVA-TEXT」。
その広大なテキストの宇宙で、私は「delta_sky」という名の創造主となる。
月間PV数は七千万を超え、累計お気に入り登録者数は百十二万人。私の作品群は既に三つの出版社から書籍化のオファーを受けているが、全て断っている。紙の本になった瞬間、私の正体が暴かれる可能性があるからだ。
『――次の瞬間、ワームホールの事象の地平面が不安定な相転移を起こし、時空連続体そのものに回復不能な亀裂が生じた。シュヴァルツシルト半径を超えた重力勾配は、プランク長以下の量子泡構造にまで影響を及ぼし始める』
モニターの中では私の分身が何万もの読者からの熱狂的なコメントの洪水にクールで知的な返信をしている。
『delta_sky先生の緻密な科学考証、痺れます!』
『今回の相対性理論の解釈、斬新かつ完璧すぎて鳥肌が立ちました!』
『カー・ブラックホールのエルゴ領域を使った時間遡行理論、実際の論文レベルです』
そうだ。
この完璧にコントロールできるデジタルのテキスト空間だけが私の唯一のリアルなのだ。ここでは誰も私の目を見て話すことはない。私の震える声を聞くこともない。私はただ純粋な「知性」として存在することができる。
近未来――西暦2045年。AI作家「ミューズ」が次々とベストセラーを生み出し、人間作家の存在意義が問われる時代。
ミューズはディープラーニングによって過去百年分の名作を学習し、読者の嗜好を完璧に分析して物語を生成する。その完成度は既に人間を凌駕していた。実際、先月発表された文学賞の最終候補作品のうち、三作品がAIによるものだったことが後に判明し、大きな議論を呼んでいる。
私はそのAIのロジックを逆手に取るようにして物語を紡いできた。
AIが学習不可能なほどの複雑でニッチな科学的知識を物語の骨格に据える。量子重力理論、超弦理論、ホログラフィック原理――これらの最先端物理学を、エンターテインメントとして昇華させる。それが私だけの生存戦略だった。
だがその戦略が今、私を人生最大の危機に晒そうとしていた。
次作のテーマは「時間遡行」に決めた。
単なるタイムトラベルものではない。江戸時代の天文観測技術と現代の量子物理学を融合させた、全く新しいアプローチの物語だ。
リアリティを追求するためには日本の江戸時代における時間観測の歴史的資料が必要不可欠だった。特に「不定時法」と呼ばれる、日の出と日没を基準とした時刻体系。これは季節によって一刻の長さが変化する、現代人には理解しがたい時間概念だ。
ネット上の二次情報では足りない。一次史料に触れなければ。
私はオンラインチャットで大学時代の唯一の理解者であった歴史学の朽木教授に助けを求めた。
『――面白い。面白いじゃないか、時枝くん。君が過去に興味を持つとは ( ̄▽ ̄)』
教授からの返信はいつも通り絵文字だらけで読みにくい。そして若干イラっとする。七十歳を超えた老教授なのに、なぜか若者言葉とネットスラングを多用する変わり者だ。
『うってつけの男を知っているよ。国立国会図書館の地下に棲む電子の亡霊をね ლ(╹◡╹ლ)』
国立国会図書館。
その言葉の響きだけで私の対人恐怖症のアラートが最大レベルで鳴り響いた。総床面積14万8千平方メートル、蔵書数4,400万点を超える日本最大の知の殿堂。そこには常に研究者や学生が出入りし、司書との対面での手続きが必要になる。私にとっては地獄のような場所だ。
だが物語のためだ。
私は震える手で教授に紹介状を依頼した。
それが私の完璧な静寂の世界に観測史上最大のノイズが混入する始まりのシグナルだったとは、まだ知る由もなかった。
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