夏のしじまに、空と海。( カクヨムコン11)♯6

柊野有@ひいらぎ

01 坂道とバスの中 


 夏の朝、じっとりとした湿気のなか、アパートで目を覚ました。エアコンのスイッチを入れて部屋を冷やしながら、会社へ行く支度を始める。グレーの工務店のパンツを履き、紺色のTシャツを着る。

 身体に前日の熱が残ったまま始まる一日は、自分をだましだまし走り続ける、行き先の見えない長距離マラソンのようだった。

 僕の名前は佐々木五郎。

 少し前までは、売れない画家をしていて、ゆえあって筆を折ったところだ。


「おっと、あの子に連絡しておかなくちゃ」


 離れて暮らす娘に、LINEを一通送る。最近では返事がめっきり減ったけれど、それでも毎日、欠かさず送っている。


 生きている間に、僕が彼女のためにできることは、ただ遠くから見守ることくらいだ。ああしろこうしろと口にできるほど、距離は近くなくて。ただ、遠くにいるよ、成長を見届けているよと伝えるために、ささやかながら毎月決まった額の仕送りもする。そんな日々が続いていた。


 僕の朝のルーティンは、ベランダのゴーヤやトマトに水をやり、自作の梅干しを入れた握り飯を、ごろりごろりと握り、前日の残り物を腹に納めることだ。ちなみに僕は、不器用で握り飯を三角に握ることができず、せいぜい俵型が限界だ。時間がない時は爆弾型にして、周りに丁寧に海苔を貼り付けて黒々とした塊を作る。そしてアルミホイルで包み、保冷タイプの弁当袋に放り込む。それでお昼ご飯の準備は終わりだ。

 そして、タイムアップ。玄関の鍵を差し込み、確かに閉まったことを確認すると、ノンストップでバス停まで走るのが日課だった。


 それから、仕事着を入れたリュックを背負い、坂道を上った。僕の家のあたりは下り坂と上り坂で入り組み、階段と、公園で、できている。坂の途中でバスに乗る。朝の車内は、いつもぎゅう詰めだ。汗の滲んだ腕が隣と触れないように、リュックを胸に抱え、小さく縮こまって吊り革を握った。

 

 いつものように、気になる男の子と美人のお姉さんが並んで座っていた。僕は、このふたりが気になって、さりげなく、彼らの座席横に立った。

 男の子は、うつむき加減で座席に座っている。お姉さんが、男の子の母親と見えないのは、ふたりのちょっとした距離感だと思う。虐待されているような気配はない。と言うのも、降車するときには、男の子はゆったりと座席から滑り降り、バスの降り際に大きな声でありがとうございましたと運転士に挨拶をする。張りのある気持ちのいい声で、その育ちの良さは、大切にされて生きてきた故の素直さのあらわれだろうと思った。男の子とお姉さんの降車は、僕の降車停留所と同じだった。


 バスを降りて、すでに高い陽射しにジリジリと焼かれながら、会社に、たどり着く。僕はもうすぐ四十歳になるというのに、この職場ではまだ、まったくの新人だ。だから、他の営業マンである先輩方が会社に到着するまでに、掃除機をかけ、ゴミ捨てをしなければならない。

 人の休んでいるときが稼ぎどきだ。土日は遅くまで歩き、大きな契約が取れた時だけ、一日休みがもらえた。

 定休日は、水曜日。月曜日から日曜日までが働く日。


 娘が小さかった頃、よく口ずさんでいた歌がある。

「すばらしきすいようびの歌」——そう呼んでいた。

 ふんふふ水、ふふすいすいすい。

 水曜日はバイトが休みだから、嬉しいのだと言っていた。

 水曜日の神様が、他の曜日の神様を○してしまえと叫んで、毎日が水曜日になった。そんな歌だった。

 歌詞には「テリ」という言葉が出てきた。歌っていた彼も、もしかしたら僕と同じように「テリ(テリトリー)」に出て、地図を片手に一軒ずつ回る営業マンだったのかもしれない。ただ、最後には、毎日が水曜日になって、バイトそのものを辞めてしまったようだけれど。


 今の僕の仕事は、外壁塗装の営業マンだ。営業マンと言えば聞こえはいいが、実際は、コピー用紙三枚分のトークスクリプトをそらんじて、ひたすら住宅街を回り、ピンポンとチャイムを鳴らす。

 要は、その紙に書かれた台詞を、いかに自然に演じられるかという、のような仕事なのだ。

 ほんの少しの歪みや欠けを見つけては、「このままでは……」と、ネガティブな話を膨らませる。 

 ヒビの入った壁に、雨が繰り返し打ちつけられ、やがて脆くなって崩れ落ちる――そんな恐ろしい光景を、相手の頭の中にありありと思い描かせる。

 そして相手が「どうすればいいんですか?」と聞いてきた瞬間、待ってましたとばかりに言うのだ。


「今なら夏のキャンペーン中で、特別価格でご案内しています。まずは無料でお見積もりを出してみませんか?」


 懐に入り込み、ささっと家のサイズや壁面のボリュームを測らせてもらう。

 そして、心の敷居を、あらゆる話術と空気で越えていく。それが、僕たちアポインターの仕事であり、次に控える「クローザー」へとつなげる大事な導線になる。


 僕らは、言ってみれば会社マニュアルに則ったにすぎない。しかし、この前座がうまくいかなければ、クローザーの華麗なるクロージング術も発揮されない。

 クローザーとは、この業界における花形だ。客の気持ちが変わらぬうちに、盛り上げて、畳みかけ、落とし込む。次々と契約を決めていく。


 そんな、ちょっと怪しげな外壁塗装屋の営業マンとして、僕は海辺の街を歩いていた。




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 つづく。

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