マイム編 詰まる言葉

 僕はマイム。だけど本当の名前は分からないんだ。メイウェザー先生が僕に名前をつけてくれた。


 僕には親がいなかった。だから、メイウェザー先生が僕のお父さん代わりだ。メイウェザー先生は"羊の家"で僕みたいな身寄りのない子供達の面倒を見てくれる。


 僕は"羊の家"の中でも年長さんだ。だから、今日みたいにメイウェザー先生がいない時は僕が"羊の家"のみんなを守らないと。


 僕が目を覚ますと、"羊の家"のみんながいなくなっていた。みんなの名前を呼びたかったけど、僕はできない。僕は生まれつき肺が弱くて、うまく喋れないんだ。喋ろうとすると咳き込んで苦しい。僕は代わりに両手を2回叩いた。こうすれば、"羊の家"のみんなは来てくれる。これが呼んでる合図だって、みんな分かってくれるんだ。でも、いくら呼んでも誰も来てくれない。食いしん坊のグルートと、お転婆のフレイマーは、部屋から出て来るのに。もしかして庭で遊んでいるのかな。もう夜も遅いのに。


 僕は起き上がって、自分の部屋を出ようとする。寝ぼけていたのかな? 僕は自分の部屋の床で寝ていたみたいだ。天井の電灯の光を浴び続けたせいか、目が痛い。ワイシャツを着たまま寝ていたからなのか、首が蒸れてかゆい。喉が渇いて、僕は数回咳き込んだ。マスクが僕のほっぺに吸い付く。


 僕のほっぺには、不思議な形のアザがあるんだ。数字のゼロみたいな黒いアザ。大きいホクロみたいで、僕はそのアザが嫌いだった。でも、メイウェザー先生は僕のアザをマスクで隠してくれたんだ。メイウェザー先生は、そのマスクをしていれば、いつか病気も治るって言ってくれた。マスクをしている間だけは、咳も和らぐような気がする。僕がマスク越しに笑うと、メイウェザー先生も嬉しそうに笑ってくれた。


 喉の渇きがひどくなり、咳はますます止まらなくなる。水、水がほしい。僕は喉を押さえながら階段を降りる。隣の部屋のピッチは帰って来てないのか。いつもだったら脱いだ靴下が床に散乱しているのに。変だな……。何度手を叩いても、僕の手の音が天井に響くだけだ。もしかしたらみんなに何かあったのかもしれない。自然と階段を降りる足が速くなる。うなじから冷たい汗が一筋垂れてきた。みんなに何かあったら、僕がなんとかしないと。呼吸が荒くなって、マスクが湿り気を帯びてきた。


 階段を降りて、僕はキッチンに向かう。喉はどんどん渇いた。水分を含んでいない咳をしながら、僕はキッチンの扉を開ける。


 誰もいない。シンクの水道から途切れ途切れに水滴が落ちているだけだ。水道から漏れ出る水滴を見るなり、僕は飛びついて蛇口を目一杯捻った。勢いよく水が吹き出し、僕の寝巻きはびしょびしょになる。それでも構わず、僕は水を掬い、口を押し付けた。冷たい水が喉を通っても、僕の喉は渇いたままだ。何度喉を鳴らしても、まるで水が身体を通り抜けているみたいだった。しまいには咳と水が混じり合い、僕はシンクに吐き出す。目も鼻も喉も痛い。みんな、どこに行ったんだ? メイウェザー先生もいつもだったらすぐに来てくれるのに。


「お、お前、何やってやがんだ?」


大人の人の声に、僕は喉元を押さえたまま顔を上げる。怖い顔をした知らない男の人が、僕を見ていた。この人は誰だろう? みんながいないんだ。助けて。そう言いたかったけど、その言葉は全て咳に変わった。呻き声が混じった咳が、僕の口から漏れる。助けを求めようと、僕は男の人に手を伸ばした。


「な……なんだよ、気味が悪ぃ。来るなよ」


男の人は僕の手を拒もうとする。メイウェザー先生がいない今、この人だけが便りなんだ。後退りする男の人に、僕は手をかけた。


「離しやがれ! だんまり決め込みやがって!」


男の人は僕の手を殴る。それでも僕は手を離そうとはしなかった。この人が何を言おうとも、僕はみんなを助けてほしいんだ。僕の指先が熱くなる。


「うっ、がはっ! な……何しやがる! 離せ!」


お願い。みんなを助けて。僕はそれだけを考えていた。涙で前が見えなくなる。耳鳴りが酷くなって、僕は指越しにしか男の人を頼れなかった。早くしないと、みんなが危険な目に遭っているかもしれない。


 男の人の返事はない。代わりに関節が鳴るような、乾いた鈍い音が僕の耳に入ってきた。指先に冷たい感触が広がっていく。目の奥がつんと冷たくなり、視界が一気に開ける。男の人は、ぐったりとしたまま動かない。口の端に泡を溜め、目が赤くなっていた。僕は驚いて手を離す。男の人は床に頭を打ちつけ、ありえない方向に首が曲がっていた。口元からだらしなく舌が垂れ、床に涎が撒き散らされている。男の人の指先は擦り切れ、血が滲んでいた。これ、僕がやったの? 僕は恐る恐る自分の手を見る。まるで男の人の鏡写しのように、僕の手は血まみれだ。いつ付いたか分からない切り傷があちこちに付いていた。吐き気が込み上げ、僕はシンクにもたれかかる。マスクを顎の下に追いやって、僕は胃の中のものを全て吐き出した。喉が締め付けられる。シンクを赤黒い塊が流れていく。これは、血? どうして? 僕の口の周りを、乾いた何かが張り付いている。


 僕は慌てて口を押さえ、蛇口を一気に捻って血を洗い流した。血に混じって、ふやけた皮膚の切れ端が流れていく。皮膚には、ゼロみたいなアザがぼんやりと浮かんでいた。これは……僕のほっぺの……。ぷかぷかと浮かぶほっぺの側の水面に、僕が映っている。僕は最初、それが僕だと思えなかった。彫刻みたいに白い顔。異常に飛び出たように見える目。首に張り付いた青黒い手形。アザがあったほっぺは、黒ずんだ血がべったり付いていた。僕は慌ててマスクをつけて、シンクから離れる。僕の顔は、床に倒れている男の人みたいだ。助けて……メイウェザー先生。助けて……みんな。僕……僕……人を……。虚しく手を叩かせながら、僕は歩き続けた。

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