第21話

 冷蔵庫のドアが静かに閉まる音がした。


 水のボトルを片手に持ったまま、詩織さんは何事もなかったように戻ってきて、俺の正面に腰を下ろす。


床に座ったまま、ペットボトルの蓋を開けて一口含むと、わずかに喉が動くのが見えた。


 さっきまで話していたことなんて――まるでなかったかのような、無表情。


 だけど、きっと、忘れてない。


 忘れるわけがない。


 俺は黙って視線を落とした。

手元にある、先ほどまで読んでいた雑誌。

表紙に笑って映る詩織さんの顔はやっぱり、目の前の彼女とはまるで違って見える。


 ──じゃあ、ウチ来る?


 そう言ってくれたときの、あの淡々とした声。



「……すみません。勝手に開いて」


 さっきよりも小さな声で言うと、詩織さんは煙草を指先でくるくる回しながら、視線をそらす。


「別にいいって言ったでしょ。もう何とも思ってないし。見られて困るなら、捨ててるよ、そんなの」


 ぽつり、ぽつりと落ちる言葉が、まるで火の粉のように胸に残る。


 何か言わなきゃと思った。だけど、出てくる言葉が見つからない。


 ただ、詩織さんはゆっくりと笑った。笑っているのに、目は笑っていなかった。


「まぁ、でもさ……私、たぶん“あの頃の自分”に似てたんだよ、あんた」


 詩織さんは立ち上がると、部屋の隅の鏡をふと見て、鼻で笑った。


「傷ついて、擦れて、どこまでが自分で、どこからが“本当の自分”か分かんなくなる。……そういう顔してた。ベンチで、寝言みたいに呻いてた時」


 その一言で、心の奥のなにかが、ざらりと削がれたような気がした。


「……俺、そんな……」


 反論しようとして、でも途中で言葉が詰まる。


 たぶん、俺自身が一番、わかっていたのかもしれない。自分がもう限界に近いってことを。


 ――だから、こうしてここに来てしまった。


 俺は、自分でも気づかないうちに、何かを求めていたのかもしれない。


 逃げ場とか、救いとか。



そんな都合のいい言葉で呼べるものじゃない、もっと曖昧で、言葉にならない何かを。


 そんな俺の心の動きを見透かしたかのように、詩織さんがゆっくりと動いた。


 タンクトップの肩に指をかけ、ぐいと引き下ろす。


 「……どうする?」


 一言。それだけだった。


「え……?」


「逃げ場所にしていいって、言ったよね? ――私を」


 その言葉に、胸が強く跳ねた。


 詩織さんは無表情のまま、左肩のストラップも外す。滑るように布が下がり、柔らかな胸元が覗く。日常の延長のような手つきで、何もためらわず、何も演出せず――ただ、体を見せる。


「別に、好きにしていいよ。ここで寝てもいいし、風呂入ってもいいし。……私に触ってもいい」


 耳を疑った。


「……っ、それは……」


「いやなら断ればいいじゃん。そういう顔するってことは、そういうこと、でしょ?」


 詩織さんは俺の目を、じっと見つめてくる。揺らぎのない瞳。淡々としていて、それでもどこか、決意のようなものが宿っている。


 俺は、喉が渇いていることに気づいた。何か言わなきゃ、と思った。


 けど、その前に――詩織さんが、俺の前に膝をついた。


 体が近い。息がかかる距離。


 肩越しに流れる髪の香りと、体温がほんのりと伝わってくる。


 彼女は手を伸ばし、俺の頬にそっと触れた。冷たくて、でも安心する温度だった。


「私もさ、誰かにすがりたかったんだよ。本当は。……でも、それができなかったから。だから、今は、あんたに“すがられて”みたいのかも」


 吐息のような声。


 その距離のまま、彼女の額が俺の胸にぽたりと預けられる。


「私のこと、利用していいよ。そう言われる方が、たぶん、私は楽なんだ」


 その言葉は、優しさでもなく、情けでもなく――どこか、自分への復讐みたいだった。


 俺は、彼女の頭にそっと手を置いた。


 指が震えていた。


 それでも、何も言わなかった。言えなかった。


 


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