第2話 平和の最寄り駅――青年期①――

 あの日―――母が失踪し、父の不倫が明らかになった日―――から更に数年が経った。


 私が高校2年生に、弟が中学2年生になった。


 私は、地元の公立高校に通っていた。特段頭が良いわけではなかった。それに、祖父母の介護や家事で手一杯だから、自身のレベルより低いところを受けたのだ。

 でも、それでも、私は幸福だった。優しい祖父母、愛おしい弟。学校で、友人と呼べるような人はまだ居ないが、それも特段問題ではなかった。

 私はただこのをしっかりと噛み締めていた。二度と手放さないように。

 そのためならば、何でも出来た。


 

 2月27日、日曜日。その日の夕方。もう2月も終わりだと言うのに、ここ2、3日雪が続いていた。弟も年齢が上がり、流石に雪ではしゃぐことはなくなった。

 そのせいか「いつもより家の中が静かだな」など呑気に考えていた。

 

 祖母が、倒れた。倒れていた。


 こたつに入ったまま、動かなくなっていた。何度声をかけても、体を揺さぶっても、祖母からの応答は無かった。

  

 私は案外、冷静に対応できた。弟に119に連絡してもらっている間、私は応急処置をした。


 意識なし。呼吸は浅いが、ある。嘔吐はない。とりあえず、昏睡体位―――意識がない人の気道を確保するため、よく向きに寝かせる体位―――をとらせた。


 一応、これで大丈夫な筈だ。


 ある程度の処置を終えると、弟がドアを勢いよく開けた。普段なら「ドアを強く開けるな」とか小言を言うが、今はそうも言ってられない。

「きゅ、救急車っ!救急車、来たッ!!」


 弟がそういい終わるとともに、救急隊の人が数人、ゾロゾロと現れた。そして、迅速に祖母の容態などを確認して、あっという間に救急車で病院に運んでいった。


――――――――



 祖母は脳卒中だったらしい。



――――――――


 結果として、祖母は“左腕麻痺”と“視野障害”という重い後遺症が残ったが何とか命は助かった。

 救急隊の人曰く「私の的確な応急処置があったからここまで症状が軽くなった」らしい。

 それがもし、気休めだとか嘘だとかでないなら⋯⋯。いや、もしそうだとしても。


 確かに私は、その言葉に救われた。


 数年前のあの日まえのときとは違う。

 私だって成長しているのだと。ちゃんと私は、家族を守ることが出来たのだと。

 そう実感することが出来た。


 しかし、これはまだだった。


  ◇◇◇◇◇


 その数週間後、祖母を介護施設に入れることにした。

 祖母は元々世話焼きな性質たちだった。

 いつも私が家事をしていると何処からともなく現れて、いっしょにやった。


 しかし、脳卒中になった後も祖母は同じようにした。


 祖母は後遺症によって、すべてのことを上手くできなくなってしまった。


 苦渋の決断だったが、祖母をに入れることにした。

 

 祖父とはよく話し合った。

 他の方法が有るのではないか?、と。ただ、具体的なもの案は一切出てこなかった。


 おそらく、その会話が“まともな”祖父との最後の会話だった。


 祖母が施設に入った後から祖父は一気に老いていった。過去の優しく聡明で溌溂としていた祖父の面影はだんだんと無くなっていった。


 祖父はアルツハイマー型認知症になっていった。

 

 最初は朝食を食べただとか、風呂に入っただとか、そういった自身の行動を時々忘れる程度だった。

 祖父がこのようになるとは思えなかったからか、当時は大変驚いた。ただ、それでもやることは変わらない。


 次第に祖父の物忘れは激しくなった。


 いつしか、私と父を見間違えるようになった。

 私は父親似で、弟は母親似だった。兄弟でこうも顔が変わるのか、と思うほど顔は似ていない。


 祖父は、そんな私を父の名前で呼ぶことが増えていった。

 正直、苦痛だった。

 自分があの父親と同じ名前で呼ばれることは、私にとって苦痛だった。私があいつと同じ存在である、と言われているような気がした。


 祖父は日に日に物忘れが激しくなり、さらに私や弟への態度は悪化していった。


 具体的に言えば私たちのことを「泥棒!」だとかそういった言葉で罵るようになった。

 認知症の症状でそのようなものがあるらしい。

 

 弟は祖母が倒れた頃から奨学金特待を受け、中学校の学生寮に入った。

 元々通学にはかなりの時間がかかっていたが、弟は何故か私たちと暮らすと言って聞かなかった。

 しかし、祖母が倒れてからは「私に負担をかけられない」といって、寮に入った。

 

 正直、良かったと思った。おかげで、弟は祖父が祖父で無くなっていく様を見なくてすんだ。


 そんななか、3月もそろそろ終わりが見える頃のことだった。

 私がいつものように家事をしながら認知症の祖父を介護していると、突然固定電話から音が鳴った。

 固定電話など普通は鳴らない。祖父母は携帯を使えていた。私や弟なんて尚更だ。

 

 私は電話をとるまで「発信元は市役所かなんかで、祖父が税金を納め忘れたのだろう。」など呑気に考えていた。


 発信元は介護施設だった。


 受話器を握る手が、わずかに汗ばんだ。こういう電話が、良い知らせを運んできた試しはない。

 耳に当てると、受話口から聞こえてきたのは、聞き覚えのある職員の女性の声だった。いつもは明るく、少し早口で、祖母の様子を淡々と報告してくれる人だ。だが、その声色は今日は違っていた。

 どこか、言葉を選んでいるような、細い糸を手繰るような間がある。


「――あの……お祖母さまの件で、お伝えしたいことがありまして」


 背筋が冷たくなるのを感じた。

 台所で流しに立っていた私は、蛇口から落ちる水音を止めることさえ忘れていた。


「先ほど、お祖母ばあさまが施設内で倒れられました。意識がなく、救急搬送いたしました。」


 病院。

 その単語の重さが、電話線を通って鼓膜に沈んだ。

 数週間前の、こたつに沈む祖母の姿が一瞬で脳裏に浮かび上がる。


「現在は検査中ですので、はっきりしたことはまだ……⋯。ただ、ご家族の方にも早めにお越しいただいたほうが良いかと」


 その一文が、何よりも状況を物語っていた。

 電話を切ったあとも、しばらく受話器を握ったまま動けなかった。台所の窓の外では、まだ冬を名残惜しむように細かな雪が降っていた。

 冷たくも静かなその白が、やけに遠く感じられた。


  ◇◇◇◇◇


 病院へ着いたとき、白い廊下の奥でストレッチャーが運ばれていくのが見えた。毛布の下から覗く細い手首は、あまりに軽そうで、揺れるたびに折れてしまいそうだった。

 呼びかけても、祖母の瞼はわずかに震えるだけで、返事はなかった。


 医師の口から出たのは、「脳卒中」という、あまりにも聞き覚えのある言葉だった。

 ただ、今回は前回とは違っていた。

 発見が遅れた――その事実が、診察室の空気をひどく重くしていた。


「もしかしたら……」

 医師は言葉を濁した。

 その先にあるものを、私はもう想像できてしまった。


 脳のどこまでが侵され、どれだけの時間が経ったのか。

 たとえ命が繋がったとしても、祖母はもう、以前の祖母ではいられないかもしれない。


 それは、すでに祖父が辿った道でもあった。


 待合室の椅子に腰掛けながら、私は自分の手のひらを見つめた。

 あの日、こたつから祖母を引き出し、昏睡体位をとらせたあのときのように、今回は何もできなかった。

 ただ、知らせを受け、病院に駆けつけただけだ。

 その“遅れ”が、私の中で何度も何度も反響した。


 窓の外では、振り続けていた雪が、音もなくその形を失い、雨に変わっていた。

 溶けた雫が窓ガラスを伝い落ちるたび、胸の奥の何かが少しずつ崩れていくのを感じた。


――――――――


 その日は、朝から祖父の機嫌が悪かった。

 朝食を出すと「こんなもの食えるか」と言って箸を投げ、私の顔を睨んだ。

 祖母が倒れて以来、こうしたことは珍しくなかったが、その日は私の中の何かがもう限界に近づいていた。


 洗濯を終えて戻ると、祖父は私の部屋を荒らし、「盗んだ金を返せ」と怒鳴っていた。

 その瞬間、堰が切れた。

「いい加減にしてくれよ!」

 声が震えていた。怒りか、悲しみか、自分でも分からなかった。

「俺は泥棒じゃない! あんたの孫なんだ!」


 祖父は一瞬、言葉を止めたが、すぐに「嘘をつくな」と背を向けた。

 その背中を見た瞬間、私は玄関へ駆け出していた。

 靴を履く手ももどかしく、冷たい風の中へ飛び出した。



  ◇◇◇◇◇



 家を飛び出したあと、俺は少し離れた公園に来ていた。

 まだ冬の名残が残る冷たい風が、頬を刺す。

 ベンチに腰を下ろして、ただ空を見上げる。

 怒りも、悲しみも、罪悪感も、全部がごちゃ混ぜになって胸の奥で渦巻いていた。

 家に戻る勇気もなければ、どこへ行けばいいかもわからない。


 ポケットの中で、スマホが震えた。

 弟の名前が表示されている。

 何となく無視しようと手を伸ばしかけたとき、再び着信。


「……もしもし」

『何やってんだよ兄ちゃん! 電話出ないで……爺ちゃんがッ……!』


 弟の声は震えていて、怒りや恐怖が混じっていた。

 それを聞いた瞬間、全身の血が凍るような感覚に襲われた。

 俺は、何も考えずに立ち上がり、全力で家に向かって走った。


 呼吸が荒く、脚が重く、冷たい風が顔を叩く。

 でも、ただ前へ進むしかなかった。



  ◇◇◇◇◇



 病院に着くと、弟が入口で待っていた。

 顔は青ざめ、唇を噛みしめ、震えている。

「兄ちゃん……爺ちゃん、集中治療室に運ばれたって……」


 廊下の先で医師や看護師が慌ただしく動く音が聞こえる。

 扉の向こうからは、機械音や低い声が断片的に漏れてくるだけだ。

 俺には何もできない。何も見えない。ただ、廊下で立ち尽くすことしかできなかった。


 弟が小さな声で言った。

「意識は……まだ戻ってないみたい……」


 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。

 怒りも悲しみも、罪悪感も、全部が一度に押し寄せた。


 俺は廊下の椅子に座り、全身の力を抜いたまま、ただ呼吸を整えようとしていた。

 弟は小さな声で「どうしよう……」とつぶやき、手を震わせている。


 そのとき、白衣の医師がゆっくりと歩いてきた。

 足取りは急いでいないが、表情は重く、目は逸らさずに俺を見ていた。


「……お孫さんですね。申し訳ありません。事故です……お祖父様が外出中、道路で車に轢かれ……」


 頭が真っ白になった。外出中に? どうして――。

 弟の小さな嗚咽が耳に入る。俺も言葉が出なかった。


 胸の奥で、ぽっきりと何かが折れる音がした。

 そして、思った。もしかしたら――あの日、俺が家を飛び出したことと関係があるのかもしれない、と。


 理由ははっきり覚えていない。怒鳴り合ったこと、家を飛び出したことだけが、頭の中でぼんやりと揺れている。

 でも、もしあのとき俺が家にいたら――そう思わずにはいられなかった。


 廊下の冷たい空気が、胸の奥の痛みをさらに押し広げる。

 怒りも、悲しみも、罪悪感も、すべてが重くのしかかり、俺はただ拳を握りしめ、立ち尽くすしかなかった。


  ◇◇◇◇◇


 そして数時間後、集中治療室の明かりが消え、数名の医者がでてきた。


 見るからに憔悴しきった弟は、彼らを見るなり絶望と期待が綯い交ぜになった瞳で彼らを見つめ、たずねた。


「じいちゃんは!?鹿島勇三カシマユウゾウはぶじですか!?」


「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯。」


 医者は、口を開かない。いや「開かない」というよりは「開きたくない」、「開くのを躊躇っている」といった様子だった。


「じいちゃんは⋯⋯⋯⋯。無事なんですよね?」


 弟は、両の眼に大粒の雫をたくさん蓄え、絞り出したような声で再度医者にたずねた。


「手術は成功しました⋯⋯⋯⋯⋯」


「なら!」


「成功しましたが、もう長くはないでしょう。」


 弟はその言葉を聞いた途端、まるで糸が切れたように膝から崩れ落ちた。


 その後の手続は私が行った。


 祖父の入院。もしかしたら、奇跡的に助かるかもしれない。そのとても細い蜘蛛の糸のような希望に私は縋った。


 もう一度祖父に会いたい。ちゃんと謝りたい。


 しかし、現実は無情で。神様はひどく平等だった。


 祖父は事故の3日後、亡くなった。



  ◇◇◇◇◇



 祖父の葬式は祖父の数少ない親友と、私、弟のみで行った。祖母の意識はまだ戻っていないため、そのような形になった。


 正直、その日のことは覚えていない。


 一つ言えることは、その日から私たち家族は、本当にバラバラになった。なってしまった。

 


  ◇◇◇◇◇



――――弟は。


 弟は、両親の記憶がほとんどない。それもそうだ。が起こったとき、弟は7歳だった。

 そのためか、弟は祖父母を本当の両親かのように慕っていた。


 この2ヶ月の出来事がどれだけ弟の心を痛めつける嬲り、虐げ、痛めつけただろう。


 弟は、もうこのときに心が壊れてしまったのかもしれない。


 このことをもっと早く気づけていたら⋯⋯。


 私は、私たち兄弟はもっと幸福に暮らせていたかもしれないのに。

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平和の最寄り駅 桜无庵紗樹 @Sakuranaann_saju

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