第2話

 

 あるところで気配が去った。

 趙雲ちょううんは走らせ続けていた馬を緩めた。


 雨と、風と、雷の音。

 山が鳴いている。


 だが、それ以外は全く静かになった。

 人間の気配がしない。

 奇妙なほどに。


 趙雲は人間の気配を読む力に長けていた。

 

 勿論ただ人の気配を追うことも出来るが、

 人間がそこにいるのに気配を押し隠すと、それもまた分かることがある。

 人間がそこにいて、ただ気配を殺しても周囲の動物が警戒したり、遮るものがないのに風が止まったり――息を殺したその、不自然に止まった空気を感じることがあるのだ。


 今はそれを感じない。

 麓から山頂まで、風が吹き抜けている。


 立ち止まった時に気付いた。


「これは……火の粉か……?」


 僅かに感じる。風に混じっている。

 この嵐の夜に、どこが燃えている。


「まさか……⁉」


 振り返った時、ガサガサ、と側の茂みが揺れた。

 一瞬趙雲は槍を構えたが自分の馬を見て、槍を下ろした。

 全く警戒せず、じっとそこを見ているのだ。


「……誰だ?」


 ガサガサともう一度葉が揺れ、顔を少し出した。

 馬である。

 乱戦になったから逃げて来た馬がいるのだろうと、趙雲は小さく息をつき先を急ごうとした。

 数歩歩き出して、馬が立ち止まった。

 茂みに潜んだ馬の側だ。


「……?」


 趙雲が気付いて、もう一度その馬の顔を見た。


「お前は……」


 一度馬を下り、歩み寄る。

 明るい栗毛に、黒い瞳。

 長めのたてがみに、胴に、見慣れた傷の跡がある。


「【翡翠ひすい】じゃないか」


 馬超ばちょうの馬だった。

 趙雲が成都せいとの城を出る時、この馬が出立を見届けるようにジッとこっちを見ている姿があった。


 何故こんな所に。


 一瞬そう思ったが、

 この馬は馬超以外を乗せて走らないし、馬超以外の人間が寄ると怒りを露わにするので、馬超がこの地に来ていること以外に他ならなかった。


「馬超殿が来ているんだな。彼はどうしたんだ」


 馬は怪我は負っていないようだが、馬超の姿が無い。


「何かあったのか?」


 黒目に強く問いかけると、ジッとしていた馬が首を返して駆け出した。

 山道の少し上で立ち止まっている。


「よし、いいぞ。導けるんだな」


 趙雲ちょううんはすぐに馬に乗る。

 合図もなく、馬は走り出した。

 趙雲はすでに、ここがどの辺りか分からなくなっている。

 彼に出来るのは、人間の気配を追うことだった。

 周囲に人間がいたり村があれば分かるのだが、一定範囲に何もなくなれば、さすがに分からなくなる。

 乱戦の中で涼州騎馬隊ともはぐれてしまった。


 だが馬超の馬と趙雲の馬には、何かが分かっているようだ。


 馬超と翡翠はいつも一緒にいるから、馬超だけいないのは妙だ。

 傷を負って動けないのかもしれない。

 馬超がこれほど早く姿を現すとは思わなかった。

 諸葛亮しょかつりょうが派遣したのだろうか?

 姜維きょういからの文には、そういうことは全く書かれていなかったのだが……。


 火の匂いだ。

 やはりどこかが燃えている。


 しかし馬は、そこへ導いているのでは無いようだった。

 そこを迂回して、どこかへ回り込んでいる。

 しばらく姿が見えなかった翡翠ひすいが、ある所で佇んでいた。


「ここか?」


 趙雲がやって来ると翡翠は突然、馬では上がれないような急な斜面を、蹄で引っ掻くようにして登り始めた。


「おいおい……」


 止める間もなく、ガシガシと流れる斜面を物ともせず上がっていく。

 さすがは涼州の馬である。

 

 ちなみに趙雲の馬は涼州の馬ではない。

 涼州の馬はよく走るぞと馬超に薦められているが、貴方がそんなに薦めるなら是非乗ってみたいが、ずっと相棒で乗って来たこいつが別に衰えて走らなくなったわけでもないのに代えるのはなあ……と黒馬を撫でてやると、気持ちは分かったのか馬超は「それもそうだな」と笑っていた。


 趙雲の馬も山育ちなので、ある程度の山岳地帯は物ともしない。

「……上れるか?」

 顔色を窺うと、はっきりと「無理です」というような顔をしていたので、趙雲は下馬した。

「ここで待っていろ」

 落ち着かせるように首を撫でてから趙雲は槍を斜面に突き立てて、そこに置くと、急な斜面を四つん這いになって上がって行った。

 手のある人間でも落ちそうだが、翡翠は猛然と上っていった。

 馬の動きじゃない。

 鋭い爪を持つ、猫や虎のような動きだった。


 涼州の馬は普通の馬が通れない道を平気で通ると聞いていたが。

 目の当たりにした。

 確かにあれなら馬超も惚れ込むだろうな。

 小さく笑ってしまう。


 それから歯を食いしばって一気に斜面を上がって行き、ようやく上についた。

 振り返ると、もう随分下の方に趙雲の馬が見えた。

 暗がりに黒い毛が溶け込んで、ほぼ光ある目がピカピカと二つ、輝いているのしか見えない。


 上に上がると、そこには小さな庵があった。しかし人の気配はしない。

 涼州にはこういった猟師小屋のような東屋や庵が山中にぽつぽつと点在していると、確かに馬超から聞いたことがあった。


「ここは……」


 深い山だがそこだけは開けて、遠くの涼州の大地まで見えた。


 村が燃えている。

 山道に沿って三つ、連なるように炎が立っていた。


 馬超がこれを見たら、どれほど悲しむだろう。


「翡翠。どこだ?」


 声を掛けると、庵の裏から嘶きが聞こえた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る