第2話 顎の違和感
現場検証が一段落し、僕と梶谷、それに高森玲奈は別荘のリビングに移った。湖面から差し込む朝日が、まだ半分だけカーテンに遮られている。空気はひんやりしているのに、女の吐く息にはどこか熱があった。
「玲奈さん、昨夜は何時にここへ?」
梶谷が尋ねる。
「夜の九時頃です。社長は仕事が立て込んでて、夕飯は軽く済ませたみたいで……そのあとすぐ寝室に入りました」
「その時、社長はマウスピースを使ってた?」
「はい。私が作ったやつです」
彼女は視線を落とし、指先をいじった。
「持病の不整脈もあるし、睡眠時無呼吸症候群もあるって医者に言われてたんです。それで少しでも楽になるようにと思って」
その言葉に、僕は軽く眉を上げた。睡眠時無呼吸症候群——下顎の位置は、この症状に直結する。顎が後退すれば気道は狭くなり、呼吸は阻害される。ましてや心疾患持ちなら、致命的になりうる。
「あなた、歯科技工士だったそうですね」
「……昔、二年ほどやってました。歯科医院で働きながら、詰め物とかマウスピースの製作も」
「じゃあ、咬み合わせを変えることがどういう影響を及ぼすか、ご存知ですね」
玲奈は一瞬、顔を上げたが、すぐに伏せた。
「そんな大げさな……ただ、社長が痛みを訴えてたから、少し高さを変えただけです」
「少し?」
「……はい。ほんの少しです」
その「ほんの少し」という言葉に、僕は針の先ほどの違和感を覚えた。咬合のわずかな変化は、素人には誤差でも、熟練の技工士なら狙って作れる。数ミリ以下の世界で、呼吸や神経反射を揺さぶることも可能なのだ。
梶谷は深く息をつき、僕を一瞥した。
「おい、五十嵐。これが何かの”殺し”に繋がるって言いたいのか?」
「まだ確証はない。でも、瀬川さんの顎の後退は自然死としては説明しづらい」
「ただの痙攣か、死後硬直かもしれんだろ」
「それなら、あの研磨用スポンジは何だ?」
僕の言葉に、玲奈の肩がわずかに揺れた。彼女は視線を泳がせ、窓の外の湖を見つめた。
「……社長がね、マウスピースの噛み心地が気になるって言うから、その場で削ってあげたの。研磨スポンジはその時の残りよ」
「何でそんなことを夜に?」
「……癖みたいなものです。仕事してた頃から、そういう調整はすぐにやりたくなるの」
そこへ、スーツ姿の女性が入ってきた。短めの栗色の髪、鋭い眼差し。
「やっぱり、あなたも来てたのね」
「森下理沙。ここの法医学担当だ」
僕は梶谷に紹介する。理沙はタブレットを取り出し、検死の速報結果を表示した。
「死因は急性心不全。ただし、死亡直前に副交感神経が強く刺激された痕跡がある」
「副交感神経?」
梶谷が首をひねる。
「簡単に言うと、体が急激に”リラックスしすぎた”状態になるの。心拍が落ちすぎて、止まった」
理沙は画面を指で拡大し、瀬川の舌根の写真を見せた。わずかに後方へ沈み込み、気道を圧迫していた痕跡がある。
「つまり、呼吸が妨げられた?」
「ええ。睡眠時無呼吸の持病と、下顎の位置が悪化要因になった可能性は高い」
僕は理沙の言葉に頷き、梶谷を見た。
「つまりこうだ。もし何者かが意図的に瀬川さんの下顎を後退させるマウスピースを作って与えたなら、それは殺人の道具になりうる」
「……だが、それを証明できるのか?」
「できるさ。マウスピースの表面、咬合面の削れ方と、瀬川さんの歯列模型を比べればいい」
玲奈が声を上げた。
「ちょっと待って! そんな……私が殺したなんて言いたいの?」
「まだそう決めたわけじゃない」
僕は静かに答える。
「ただ、この部屋にある物と、あなたの経歴が偶然だとは思えないだけだ」
沈黙が落ちた。湖面を渡る風がカーテンを揺らし、薄い布越しに朝の光が滲んだ。僕はポケットからメモ帳を取り出し、一行だけ書き留めた。
〈顎位後退+副交感神経反射=急死〉。
これはまだ仮説にすぎない。だが、もしこの式が成り立つなら、瀬川の死は計画的に作られた”事故”だ。
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