第十四話 優菜の覚悟
一番優先するのは、
結が幼稚園から帰ってきて、おやつを食べて、遊んで、ご飯を食べて。
お風呂、歯磨き、本読みで寝かし付け。
あんなことがあった日でも、いつものように結の世話をできている自分が可笑しかった。
結は何か察しているだろうか。とても良くできた子だし、聞き分けも良い。
そのことで逆に負担を強いてしまっていないか、いつも心配だ。もっと我儘を言ってくれてもいいと思っている。(言われたら言われたで辛いのだろうけど)
だからこそ、結の気持ちを踏みにじるようなことは絶対にしたくない。
たとえ、私が結から離れることになったとしても。最後になるかもしれない結の寝顔を見ると、身が引き裂かれるように思う。でも、私にはこれ以上結や拓馬と一緒にいる資格はないかもしれない。失いそうになってから、自分の愚かさを、浅はかさを、憎んでも遅すぎた。
結は、毎日しっかり幼稚園で遊んでくるようで、夜九時には寝入ることができて助かっている。今日も、いつもと変わらず眠ってくれた。
千春さんには、夜遅くならないうちに『明日の朝、拓馬と話をする』とメッセージを送っておいた。
リビングに戻り、キッチンで洗い物を片付ける。いつもなら十時ごろに帰って来る拓馬は、今日は帰らない。
自業自得。言葉で言うだけなら簡単だ。私が苦しむだけで済むなら、それでいい。でもそういうわけにはいかない。
私は、責任の取り方を考えていた。
最優先は結、という前提のもと。
拓馬に、落ち度はない。これは私の主観的に見ても、客観的に見てもだ。セックスレスであったのは事実だけど、私が特に望まなかったからというのも事実だ。
私は一方的に、拓馬を裏切ったのだ。こんなに優しく、温かい人を。
では千春さんはどうだろうか。
彼女に非があるとしたら、既婚者である私に手を出したこと。でもそれは、私が受け入れたからに他ならない。
千春さんは、諦めようとした。私から離れようとした。それを引き止めたのは私だ。私が誘ったのだ。
客観的には、誘いを断らなかった千春さんにも責任があるとは言えるだろう。それでも、誘った私の責任が圧倒的に大きい。
千春さんは、『自分が襲ったことにすればいい』と言った。
私自身は、自分が責められればいいと思っている。でも、結や拓馬が千春さんの厳罰を望んだとしたら――。
それを止めることはできない。私にできるのは、庇うことではない。共に責を負うことだ。彼女と同じだけの、いやそれ以上の罰を甘んじて受けよう。
私は、とっくに気づいていた自分の心を再確認した。千春さんのことを、これほどまでに想っている自分の心を。こんなに後悔しながらも、千春さんに会いたくなっている自分はどうしてなのか。会えなくなるのは、何よりも辛い。『恋人ごっこ』を演じていて、千春さんは幸せそうに見えた。でも、どこか虚な目をしていることがあった。それも当然かもしれない。『ごっこ』に過ぎなかったのだから。私は彼女の本当の笑顔が見たかった。そのためには『ごっこ』ではダメだった。でもそれは、既婚で子供もいる私には得られないものだった。得ようとしてはいけないものだった。初めから、不可能なものだった。それなら出会わなければよかった――? きっと、千春さんもこういう気持ちでいたのだろう。私が考えなしに『恋人ごっこ』をしていた間、彼女の心は掻き乱されていたのだろう。
震える手が、シンクにコップを落とした。大きな音を立ててしまったが、結は起きてこなくてホッとした。
ヒビの入ったガラスのコップが私の指を傷つけた。薄く入った線が赤くなり、じわじわと滲む。
「
その痛みは、何の償いにもならない。
私はどう償ったらいいのか、分からない。償えないかもしれない。それでも拓馬に、結に、裁きを委ねたい。私は、一生を賭けてそれを受け止める覚悟を決めた。
そのまま、私は一晩起きていた。拓馬に何を話せば良いのか、これからどうしたらいいのか、頭の中はグルグルと落ち着くことはなかった。
翌日朝。五時ごろにスマホにメッセージが入った。拓馬が六時までに家に帰るとのことだった。
拓馬は、ゆっくり玄関の扉を開けた。あまり寝ていなさそうな、疲れた顔をしていた。怒っているだろうか。呆れているだろうか。拓馬は優しいから、たくさん悩んでくれたのかもしれない。
「……ただいま。結はまだ寝てる?」
「……おかえり。はい、寝てます」
「……」
「……」
沈黙が続く。靴を脱ぎながら、拓馬は
「ビジネスホテルに泊まってきた」
とだけ言った。髪など小綺麗になっているのは、シャワーくらいは浴びてきたのだろう。私は無言で頷いた。
「コーヒー、入れてもらっていい? 二人分」
拓馬はジャケットを脱いでハンガーにかける。そういえば、コーヒーメーカーを使うのは久しぶりだ。千春さんのカフェで飲んでいたので、それ以外の場で飲む気になれなかったのだ。いつもは癒やされる挽いたコーヒー豆の香りも、今は少し罪悪感が募る。
拓馬がテーブルに着いた。コーヒーができるまで少し時間がある。その間、無言で待ち続けた。拓馬は真剣な顔で、腕を組み俯いている。コーヒーを入れると、湯気と共に香りが広がった。冷たく乾いた空気に、少しだけ瑞々しさと暖かさが部屋を満たす。拓馬にマグを渡すと、ゆっくりと一口啜った。
「とりあえず、優菜の話を聞きたい。座ってくれる?」
私は席につき、深く頭を下げた。
「本当に申し訳ありません。私は不倫行為をしてしまいました。既婚者でありながら、子どもを持ちながら、別の人と身体の関係を持ってしまいました。これは紛れもない、事実です」
「……相手は、あの千春さんだけ?」
まったく予想だにしていない質問だったので、私は思わず拓馬の顔を見てしまった。
「はい、千春さんだけです」
「千春さんは……いや、優菜は、女の人が好きだったの?」
「いえ、もともとそうだったわけじゃ……」
「そう……。結婚して五年経つけど、俺の目が節穴じゃないなら、優菜は進んで不倫するような人じゃないと思ってる。俺との生活に不満があった……?」
「……いいえ、拓馬にはいつも感謝しています。一緒に生活する上で不満はありません。むしろ私の方が、拓馬に対して何もしてあげられていないと思います」
拓馬は、少し安心したような顔になったが、また神妙な表情になって言った。
「……千春さんの方からアプローチを受けたんじゃないかとも思ってるけど、どう?」
――どうしよう。複雑な経緯ではあるけど、それは間違っていない。千春さんに不利なことは言いたくないけど、嘘をついていい状況じゃない。これはきっと、拓馬の助け舟なんだろう。千春さんに責任があるなら、拓馬は私を許すことも考えてくれている、ということなのかもしれない。でも、私は千春さんに罪を被せようとは思っていなかった。
「えっと……」
私は、心の中で千春さんに申し訳なく思いながら、隠すことはできないと思った。ただ、責めを受けるなら私も同じだ。
「……あるきっかけで、千春さんが私のことを好きだと言いました。でもそれは、千春さんが無理やり私に伝えたんじゃなくて、誤解によるものでした。千春さんが考えなしに既婚者である私と関係を持とうとしたわけじゃありません。彼女の気持ちを知った上で、私は友達付き合いを続けることにしました。私は、せっかくできた友達と離れるのが嫌で、そのまま関係を続けたんです」
「ただの友達のつもりだった……ということ? 優菜は、千春さんのことをどう思ってる?」
決定的な質問だった。弁明はできない。自分の心に嘘はつけなかった。そもそも、嘘が得意な方ではない。
「千春さんに……だんだん惹かれていきました。女の人を好きになったことがないので、分からないけど、私は千春さんのことを、好きになっていたと、思います。千春さんは、私のことを諦めようとしたんです。でも、私は引き止めてしまった。身体を許してもいいと、思えるくらいには、もう好きだったんだと思います……。私が悪いんです。完全に、私が……」
目の奥が熱くなり、声が勝手に震える。自分の浅はかな行動が、千春さんに罪を背負わせ、拓馬を踏みにじり、結を悲しませる。
「……わかった。ありがとう」
拓馬は淡々と言った。拓馬はずっと冷静だ。今までも、怒ったり怒鳴ったりすることはほとんどなかった。表情からは、感情が読めない。私をどう思っているのだろうか。
「じゃあ俺の考えを話すよ」
拓馬はすっかり冷めてしまったであろうコーヒーを一口飲んだ。
「まず共有しておきたい大前提として、結の気持ちを最優先にしたい。結が悲しむようなことはしたくない。その次に優菜や俺の気持ちがある。その点は問題ない?」
「はい。私もそれが大事だと思います」
「よかった。俺は今、優菜から話を聞いた。それを今度は結に説明したい。もちろん説明の仕方は配慮が必要だと思うので、それは一緒に考えてほしい」
私は頷く。
「それで、ここからが本題なんだけど、俺は……不思議に思うかもしれないけど、優菜と千春さんの関係について怒りを感じたりしていない。だからその、二人の関係は続けても良い。……これは自分でも意外だから、信じてもらえないかもしれない」
「……え?」
拓馬の言っている意味がよく分からない。私のしたことは不倫だ。でも、そこに怒りを感じていない? 拓馬が結のために我慢するとか、一度だけなので許すとか、そういうわけでもなく。しかも、今後も続けても良いと……? 混乱している私に、拓馬はストレートな表現で告げた。
「簡単に言えば、二人の不倫を……公認してもいいかなと思ってる」
――不倫を、公認……!?
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