第3話 ブローチと雨と、日々の音 ep凛
朝の空気がまだ白く、世界の輪郭が柔らかい時間帯。私はいつものように、そっとベランダに出る。
冷たい外気が肺の奥まで滑り込み、眠気の残る頭をゆっくりと目覚めさせていく。微かに湿った風が、頬に触れ、髪を揺らす。まだ街が完全に動き出す前の、このひとときが好きだ。
「よしっ…」
自分だけに聞こえるほど小さな声で、気合いを入れる。薄く笑ってから、私は部屋へ戻り、手慣れた動きでエプロンを身にまとう。鏡に映った姿は、どこか昔の自分と違う。けれど、今の私は、きっとこの顔でいいのだと思う。
後ろで髪をまとめながら、台所に立つ。まだ薄暗い部屋に、リズムよく包丁の音が響きはじめる。
トントン、トントン。
まな板を叩く音に、ジュウッと卵が焼ける音が重なる。こんな音が、いつからか「日常」になったことに気づいて、少しだけ胸があたたかくなる。
「おはよう」
背後から、くぐもった眠気を含んだ声が届く。
「うん、おはよ。じゃあ、顔洗ってきたらご飯にしよ?」
振り返ると、くしゃくしゃの髪で目を擦っている厚志が立っていた。寝ぼけたまま洗面台に向かっていく背中が、少し猫背で、なんだか無防備で。
(朝弱いの……変わってないなぁ)
そう思いながら、私は卵を裏返す。
朝食の時間は、言葉が少なくても満たされている。箸が進む音、味噌汁をすする音。そんな音たちが、ここに“ふたり”の暮らしがあることを静かに証明してくれている。
***
「そうだ秀一くん、今日はお弁当作ったから持ってって?」
出かける準備をしている秀一に、お弁当を包んだナプキンをそっと手渡す。
「え? あ、ありがとう。でも、気を遣わなくても――」
「気なんて遣ってないよ。昨日の残りものがあったから、ついで」
ちょっとだけ言葉を強くして、押しつけるように笑う。
「……そっか。うん、ありがとう、凛」
その一言が、思っていた以上に嬉しくて、少しだけ胸の奥がじんわりと熱を持った。
無造作に靴を履く彼の背中を、私はしばらく目で追っていた。
――無理してるんじゃないよ、私がやりたいからやってるの。
彼が何度「悪いな」「気を遣わせてごめん」と言っても、それは違うって伝えたくて、でも伝える言葉が見つからなくて。
……ただ願ってるだけ。
今日も、彼の“帰る場所”が、少しでもあたたかいものになりますように。
***
午前中のルーティンは決まっている。
洗濯物を干す。布団を軽く叩く。掃除機をかける。床を拭く。狭いアパートだから、ひととおり終えるのにそれほど時間はかからない。でもそれでいい。この場所を、誰かのために整えることが、今の私にとっては、日々を生きる理由のようなものだから。
昼食をひとりで取る。昨夜の残りをアレンジしただけの簡単なごはん。でも、味は悪くない。
「……うん。今度、秀一くんにも作ってみようかな。なんて言うかな、ちゃんと“美味しい”って言ってくれるかな……」
そう呟いた自分の声が、思った以上に小さく響いた。
***
午後。足りない卵を買いにスーパーへ向かう。
ちょうど特売の時間。主婦たちが殺気立ったように動き回る中、私は小舟のようにその波をすり抜けていく。特売の卵は、まるで金塊のように奪い合われ、私はその中のひとつをやっとの思いで手に入れた。
(ふぅ……なんとか買えた……)
店を出たころには、空が濃い灰色に変わり始めていて、風に混じる雨の匂いがした。
小走りで帰路につく。アパートの階段を駆け上がり、滑り込むように部屋に入り、洗濯物を一気に取り込む。
ちょうど最後のシャツを掴んだその瞬間、雨が一斉に降り出した。
「――あ、ぶなかった……」
濡れたら明日着る服がなくなっちゃう。そんなことを思って苦笑する。
ふぅ、とひと息。カーテン越しに見える景色は、にわか雨でにじんでいた。
***
夕飯の支度。
鍋を開けて、味見をする。
(……あれ?)
思っていたより味がぼやけている。お昼のときは、もっとしっかりした味だったはずなのに。
(……失敗、しちゃったかな)
少しだけ肩を落とす。でも――
(きっと、秀一くんなら「美味しい」って笑ってくれるんだろうな……)
そう思っただけで、ふっと口元がゆるむ。でも、そこに続く静けさが、ふと胸に入り込んでくる。
(……私、今、すごく幸せなんだと思う)
それは間違いない。厚志と過ごす日々。決して特別なことはないけれど、確かにここにあるぬくもり。でも。
(……でも、それが少し、怖い)
(この時間は、いつまで続くんだろう……)
視線を移す。化粧台の上、小さな猫のブローチが目に入る。昨日、秀一がくれたもの。
静かに、手に取る。銀色の猫が、雨音の中で小さく光る。
(……そっか。もう、半年も経つんだね)
思わず漏れたその言葉に、自分でも驚く。笑みとともに、胸の奥に湧き上がるあたたかさと、ほんの少しの寂しさ。
それは、今ある幸せが、いつか終わるかもしれないという予感に似ている。
そして――
時間は静かに、あの日へと巻き戻っていく。
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