第2話『扉の向こう、まだ見ぬ階層(フロア)で』

扉が閉じる音は、いつもと同じく密やかで、まるで世界の呼吸が止まったかのようだ。


私と、彼女。そして、沈黙。


その三つだけが、この金属の箱の中に存在している。階層を示すデジタル表示は依然として「――」のままだが、エレベータは確かに下に、あるいは上に、あるいは、もっと別の次元へと動いている。その揺れはごく微かで、まるで胎内にいるような錯覚を覚える。しかし、私の感覚は知っている。これは、安らかな場所ではない。


「ねえ、ここは、どこに向かっているの?」


彼女──ミコトは、不安げな目で私を見上げた。その瞳には、まだ世界の輪郭を捉えきれていない子供のような純粋な戸惑いが宿っている。記憶を失っている彼女にとって、この移動はただの宙ぶらりんな状態なのだろう。どこにも属せず、どこへも行けない。まさに、このエレベータに乗る資格のある「心が中途半端な人間たち」の一人。


「私にも、正確な場所は分からないわ」


私は答えた。それは嘘ではない。正確な住所や番地など、このエレベータに存在しないのだから。しかし、その言葉は彼女を安心させるどころか、さらに不安にさせたようだった。その華奢な肩が、かすかに震えるのが見て取れた。


「私、生きたい……」


突然、彼女は呟いた。か細い声だったが、そこには確かな意志が宿っていた。


「生きているって、どういうこと?」


問い返したのは、私自身だった。私の中に残る、かつての“人間”だった部分が、彼女の言葉に反応したのだろう。奇妙な感情だった。憐憫にも似ているが、それだけではない。もっと複雑で、絡み合った、解き放たれていない何か。


ミコトは首を傾げた。そして、ゆっくりと、震える指先で自分の胸に触れた。


「ここが、ドクン、ドクンってするの。それだけは、わかる」


ああ、そうか。心臓の音。生命の証。それすらも、彼女にとっては「分からない」ものなのだ。私が“社会的に死亡”しているように、彼女は“存在的に宙ぶらりん”な状態なのだ。まるで、生まれる前の赤子のように。


沈黙が、再び私たちを包み込む。しかし、先ほどまでの無機質なものとは違い、どこか温かい、あるいは痛みを伴うような、生々しい沈黙だった。私は無意識のうちに、ミコトから少し目を逸らした。彼女の純粋な問いが、私の深く沈んだ記憶の底を揺さぶるのを感じたからだ。


どれくらいの時間が経ったのか。このエレベータに時間の概念は意味をなさない。突然、エレベータが微かな振動と共に停止した。階層表示はやはり「――」のままだが、扉の向こうから、何か“気配”が近づいてくるのが分かった。


「次のお客さまね」


私はミコトに告げた。彼女は驚いたように目を見開いた。


扉が、音もなく開く。


そこに立っていたのは、全身を黒い喪服に包んだ、顔色の悪い女性だった。その表情は絶望に染まり、まるで何かを深く後悔しているかのように、虚ろな眼差しをこちらに向けていた。


彼女の瞳の中に、私は見た。


かつての私と同じ、深い「喪失」を。


「ようこそ、幽世エレベータへ」


定型文が、私の口から滑り出る。だが、心なしか、その言葉の響きは、先ほどミコトに語りかけた時よりも、ほんの少しだけ冷たく、そして乾いていた。ミコトは、その女性を不安げに見つめている。


新たな乗客。新たな「心が中途半端な人間」。


そして、エレベータは再び、音もなく沈み始める。


私の仕事は、まだ終わらない。

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