4話 生々

 向かい合って、クリスの足の間に膝立ちの姿勢をとる。

 クリスを見下ろす、私。


 掌に接吻したまま、私の顔を上目で見つめる眼に囚われる。


 目が離れない。


 ゆっくりと瞼を閉じ、長い睫毛が影を差す。

 じっと、私の掌を口に当てたままの姿勢。


 睫毛の作り出した影を、不思議な感覚で眺めていた。

 やがて、開かれた睫毛の間から緑の眼が私を映す。

 私が今まで知ることのなかった真摯な瞳。


 いや違う。


 私を拒絶したときの瞳とひどく似ていて少しばかりの恐怖を引き起こす。

 視線は少しも動かず、クリスの両手が私の頬を包み込む。


「もう逃げられねーぞ」

 いつもより低い声に耳が震える。

 力が抜けた私の体を、自分の方へ引き寄せ頬に口付ける。


「だから、もう泣くな」

 気付かないうちに私は涙を流していた。


「あれ?涙?私、いつから?」

 袖で涙を拭おうとすると、クリスの唇で阻まれる。


「ばぁか、擦れる。そのままでいろ」

 涙を拭くように、クリスの舌が涙を舐める。


「犬…」

「…るっせ…」

 それでも舐め取られていると、自然に唇と重なる。

 啄むように重ね合わせていた唇が、長く、深く重なる。


「胸、おっきくならなかったけど、いいの?」

 少し拗ねた様にそう言ってみる。

 

「本当に可哀相に」

 くすくすと笑いながら、胸に触れる。


「仕方ねーから、俺がおっきくしてやんよ」

「もぉ!」

 


 ふわっとクリスの体が離れ、見下ろされる。

「そーいや、いつもと逆の体勢だな」


 と言うと自分の着ていたローブを脱ぎ、姿態が現れる。

 年齢を感じさせない綺麗な躯。

 クリスが、その紅く潤んだ瞳で、上唇を舌で舐めた。

 

 何年も待ち望んだこの日。


 満ち足りた幸福感に浸り、眠りについた。




「いつまで寝てんだ?」

 目を覚ますと、濡れた髪で小洒張こざっぱりとしたクリスがいた。


 朝日の中に微笑むクリスがいた。


「若いんだから、いつまでも寝てんじゃねーよ」

「爺!」


 笑いながら、抱き抱えられてる。


「体、大丈夫か?」

 さっきまでの悪戯小僧から一変した心配そうな面持ちで訊いてくる。


「…ん、大丈夫…多分」

「なんだ、そりゃ」

 何気なくベットに視線が落ちたら、シーツには赤い染み。

「…あ、」

 ご免なさいと続ける間も無く

「気にすんな。シャワー浴びてこいや」

 と、額に口付けた。




 手の甲への接吻は尊敬。

 掌への接吻は懇願。

 母がそう教えてくれた。



──Rememoro 

 クリストファー・メルクリオス


 幸せな気だるさで、窓に差す薄い紫の光に目を覚ます。

 腕の中の暖かいものに愛しく撫でる。

 

 喉から手が出るほど欲しくて欲しくて堪らなかったものが、漸く手に入った多幸感と、手折った事への少しばかりの罪悪感。


 考えていても仕方がない。

 俺はシャワーを浴びに部屋を出る。


 シャワーを頭から浴び、目を閉じると、昨夜の事を思い出す。


 メアリと、前のメアリは容姿は同じだが性格はまるで違う。


 育った環境の違いかも知れないが、俺に対して露骨に不貞腐れたり拗ねたり、ましてや馬乗りになるなんて考え付かない行動で、メアリと前のメアリを同一視する事はまずなかった。


 別人だった。

 別人だったのに。

 だからこそ、気持ちにけりが付いた筈なのに。


 昨夜、俺は嘘のように馴染む体に唖然とした。

 もう何年も、何十年も触れることがなかったその肌の感触は、まるで同じだった。


 懐かしさと愛しさの渾沌。

 


 バスローブを羽織って部屋に戻ると、メアリは安心仕切った顔でまだ眠っていた。

 いや、起こさないようにはしたけど、いい加減起きろや。

「そんな可愛いと、悪戯するぞ」

 と、声にするが起きる様子はない。


 メアリに会えなくなって数十年、

 空虚を埋めるように誰かと関わったことはあったが、どれも心には届かなかった。


 二度目はなかった。


『これじゃない』がいつも頭に響いた。



 それが、メアリに辿り着くためであるならば、結果よければ全て善しとするか。

 些か自分に都合がよいが。



 何処までも可愛らしい俺のメアリ。

 俺の前に現れてくれて、あまつさえ慕ってくれて。

 心から尊敬するよ。



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