電話

 九条陽介と白河琴音は、深夜の静かな住宅街を、口を開かず、疲労困憊の足取りで歩いていた。

 琴音は打撲・擦過傷多数、陽介もまた、砕け散ったFUMの残骸が入ったリュックを背負い、重い足を引きずっていた。彼らの心には、鬼に対する不甲斐なさ、役禍角との激戦の余韻と、壊れたFUM、小鬼たちに何もできなかったことの全てがのしかかっていた。


 陽介のアパートは、小机駅から徒歩10分ほどの場所にある、築年数の経った2階建ての一室だった。鍵を開け、明かりをつける。散らかった部屋には、所狭しと機械部品や工具が並び、まさに「ギークの巣窟」といった趣だ。


「……とりあえず、休もう」


 陽介は、ソファの上の荷物を手で払い除け、琴音を座らせた。琴音はすぐさまソファに横たわり、泥のように眠りに落ちていった。

 陽介が救急箱を持ってくる。大した薬品はない。

 寝息を立てて眠る琴音の手足に見える痛々しい傷を治療する。ノンアルコールのウェットティッシュで汚れを拭きとり、マキロンで消毒。絆創膏を貼る、青くなっているところには、シップをしておく。なんの知識もない応急処置。

 その後、リュックからFUMの残骸を取り出した。メインユニットは完全に砕け散り、配線はむき出しになり、ディスプレイもひび割れている。しかし球状の観測珠だけが、まるで何事もなかったかのように、鈍い光を放っていた。

 陽介は、その観測珠を手のひらに乗せ、じっと見つめた。幼い頃、母親を亡くし、研究に没頭する父親が海外を飛び回る中で、孤独に世界を見つめてきた。

 父親が再婚もせず、独り身で、研究のみに没頭するのは、自分のせいだと自覚している。自分がいなければ父親はもっと自由に生きられている。

 極端にいうと、自分は厄介者で、多分世界に必要ない。それが心根にある。

 『想子力場という未知の世界を測定し操作する機械』という、いまこの世にない、世界で唯一のものを作り出せたら、もしかすると世界は自分を必要としてくれるのかもしれない。

 そんな浅ましい心の拠り所になっていた。

 FUMの破壊は、レゾンデートルの再喪失だった。


「くそ……」


 陽介は、観測珠を握りしめ、唇を噛み締めた。再構築は可能だろう。観測珠さえ無事なら、データは残っている。だが、また一から部品を集め、組み上げ、調整する途方もない作業を想像すると、絶望的な気分になった。これまでの時間と労力、そして何よりも、FUMを通して琴音と繋がっていた感覚が失われた喪失感が、陽介の心を深く蝕んでいた。

 陽介は手持ち部品で少しでも再生できないか試みた。制御システムを実装していたラズベリーパイのマイクロSDカードを喪失していた。新横浜の新幹線ホームに探しに行きたいとすら思う。


 どれだけ時間が経ったか。空が白んできた。

 その時、琴音のスマートフォンが振動する。

 琴音はぼんやり横になったまま画面も確認せず、寝ぼけた声で応答する。

「はい、琴音……です。あ、お母さん?」

 琴音は、はっと顔を上げた。

「……あ、あっ!お母さん?やばいっ」

 受話器の向こうから、母親の白河美琴の明るく、しかしどこか見当違いな声が聞こえてきた。

「琴音さん…遅くなるなら連絡する約束でしょう。朝帰りですらないじゃない。いったいどこにいるの?もしかして?……お相手はどなたかしら?」

 琴音は、思わず陽介の方に視線をやった。陽介は、耳を澄まして聞いていたのか、ギョッとした顔で琴音を見ている。

「お、お母さん!違うの!ちょっといろいろあって、陽介くんのとこにいるの。」

「まあ?お母さん応援するけど、高校生にはまだちょっと早いかしらね?はやく孫の顔は見てみたいけどねぇ。それにしても、陽介くんは、ちゃんと責任とってくれそう?」

 美琴さんの言葉に琴音の顔が真っ赤になる。

「せ、せ、責任って」

 陽介の顔も真っ赤になる。彼は口パクで「俺はまだ童貞です!」と琴音に訴えかけるが、琴音は顔を伏せて「お母さん、もう!ばか。」とだけ答える。

「あとで、じっくり、のろけ話をきかせてもらうからね。ちゃんと帰るのよ。」

 電話が切れる。琴音は少し呆然としている。申し訳なさそうに陽介の目をみる。

 しかし、その顔には、どこか照れくさそうな、そして少しだけ嬉しそうな色が浮かんでいた。陽介は、まだ顔の熱が引かないまま、話題を変えるように口を開く。

「……熟睡してたよ。大丈夫? 体調は?」

 陽介は、努めて平静を装って尋ねた。

「うん、寝たら重さは抜けた……あ、絆創膏。ありがとう。」

 琴音は、寝てる間に陽介に施された、とんでもなく不器用な傷の処置に気づく。

 机上のFUM残骸を見つめて、陽介の目をじっと見る。その視線に気づき、陽介が眉を上げる。

「……大丈夫だ。観測珠は無事だから時間をかければ作り直せる」

 陽介はそう言ったものの、その声には、明らかに元気がなかった。琴音は、そんな陽介の様子に気づき、ゆっくりと立ち上がると、彼の隣にそっと座った。


 再び、琴音のスマートフォンが振動する。今度は見慣れぬ固定電話からの着信。

 琴音は訝しげに画面を見る。横浜市の市外局番が表示されている。陽介も不安げな顔で画面を覗き込む。

「……もしもし」

 琴音が恐る恐る電話に出ると、受話器の向こうから聞こえてきたのは事務的な女性の声だった。


「失礼ですが、こちら、白河琴音さんの携帯で誤りないでしょうか。」

「はい」

「こちら新横浜駅の落とし物センターですが、お荷物とお洋服、お忘れではないでしょうか。」

「えっ!はい。」


 新幹線ホームに飛ぶ際に、駅横に放置した手荷物、ホームで投げたリュック、ジャケットのことだと琴音は気づく。ジャケットに生徒手帳を残してきていた。おそらくそれで連絡先がわかったのだろう。


「あの、少々お待ちください、駅長にかわります」

「!」


 聞き覚えのある、新横浜駅の駅長の声だった。


「あの、新横浜駅長の中西と申します。はじめましてではないと思いますが。」

「……」


 琴音は言葉を返せずにいた。鬼を倒せなかった弱い自分、罪のない小鬼を救えなかった自分。彼女の心もまた、それらの出来事に囚われていた。


「申し訳ない、個人情報のコンプライアンス違反ではあるのですが、お礼を言わせてください」


 お礼と言う言葉に琴音は少し目を見開く。駅長の声は、先ほどまでの事務的なトーンとは打って変わり、深く、そして真摯な響きを帯びていた。


「あなたの初動で多くの部下の生命が救われました。本当にありがとうございます。」


 驚きと同時に、琴音の目に、うっすらと涙が滲む。


「最初に鬼から救い出していただいた女性社員は、来月結婚を控えておりました。」


 琴音の頭の中に、ホームで鬼に体を掴まれ今にも身体を握り潰されそうだった女性駅員の姿が浮かんだ。フィジカルに勝る相手に対する戦闘のセオリーを破り、近接攻撃で腕を攻撃し女性を手離すように仕向け、己にヘイトを向ける策を仕掛けざるを得なかったが、その作戦変更が、どれほどの意味を持っていたのか、その言葉で初めて実感した。


「あなたが鬼を抑えていなければ、多くの部下がもっと、怪我をしていたかもしれません…。本当に、本当にありがとうございます。」


 駅長の言葉が、白河琴音の心を覆っていた重い雲を、少しずつ晴らしていくようだった。鬼を倒しきれなかった、小鬼たちを救えなかった、激しい戦いの傷跡に苛まれていた彼女の心に、この感謝の言葉は温かい光を灯した。琴音は、電話を握りしめたまま、かすかに頷いた。


「いえ……私たちは、勝手に……」


 琴音がそう言うと、駅長は穏やかな口調で言葉を継いだ。


「勝手、か。そうかもしれない。だが、君の行動がなければ、我々はもっと大きな被害を受け、多くの命が失われていた。それは紛れもない事実です」


 駅長は一呼吸置き、静かに尋ねた。


「ところで、君の連れが使っていたあの奇妙な装置は、何ですか? 君の、人とは思えぬほどの動きと関係があるのでは?でなければ、役禍角を追い詰めることもできなかったはずだ。私はあちこちの駅で、多くの怪異を見てきたが、あれほど戦況を動かした『道具』を見たのは初めてだ」


 警戒し、耳をそばだて会話を聞いていた陽介は我慢できず、琴音の手から電話を奪うようにして耳に当てた。


「なぜ、装置のことを……!?」


 陽介の声には、警戒と驚きが混じっていた。


「あ。君もいたのか、ならば話は早い。お名前、お伺いしても?」

「九条、九条陽介といいます」

「中西です……駅長もやってますが、それだけの立場ではない。あちこちで起きる『怪異』に対し我々駅員がいかにして対処し、駅を守るべきかを研究する組織の一員でもある。君たちモノノフの存在を知っていて、時に助けていただいてもいる。」


 駅長の言葉は、陽介の合理的な思考に訴えかけるものだった。陽介は厳密にはモノノフではないが。


「あの装置が、どれほど重要な役割を果たしていたか、私は理解している。そして今後のために、強い興味を抱いている」


 陽介は、電話口で息を呑んだ。駅長が、自分たちのことをここまで把握しているとは。そしてFUMにまで言及するとは。


「今は、何もお見せできないです。手作りなので再構築には時間がかかります。それに、部品も……」

「いやはや手作りとはすごいな。いや、装置が破壊されたことも承知している。そこでだ。ええと、まずは君たちの忘れ物だが、駅で預かっている。取りに来てほしい」


 駅長はそう言うと、少し間を置いた。


「そして、その時に、君たちにモノノフに関する、いくつかの話をしたい。特に九条くん。君が持っていたあの装置について、是非とも聞かせてもらいたいことがある」


 話をぶったぎることになるが、陽介には少しだけ引っかかってることがあった。


「一点、いいですか?……あの、まさか……あの強いおっさん…、死んだんじゃ……?」


 陽介は、恐る恐る、しかし切実に尋ねた。咄嗟に自分の仕掛けた罠が、あの巨体の男を本当に殺してしまったのではないか、駅に行くと警察が待っているのではないかという、策士の疑心暗鬼、漠然とした不安が彼を襲っていた。

 電話の向こうで、駅長がフッと小さく笑った。


「安心したまえ。君のいう強いおっさん、役禍角えんかかくくんは生きている。いや、むしろ元気すぎて困るくらいだ。ただ、少々、『電撃の計』には驚いたようだがな。」


 駅長の言葉に、陽介は全身の力が抜けるのを感じた。死んでいなかった。安堵と、そして少しの拍子抜けが入り混じった表情で、陽介は琴音を見た。琴音もまた、会話の端々の単語と、陽介の様子から事態を察し、少し笑い、安堵の息を漏らしていた。


「……わかりました。お伺いします」

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